2017年08月23日

常識の非常識

一は全なのか。

「あの人は変態なんだよ、
                 だって皆言ってたもん」

この類の会話は日常的に繰り広げられる。
当たり前に使われるが故に通常気には留めないが、ふと立ち止まってみると、ある違和感をもつ。
それは、「皆」とはどれだけの人を指すのか、と。

「皆が言ってた」とよく使ってしまうが、皆とは誰かと問われて実際に数えてみると、たった2,3人くらいである。これは面白い。人間のハイスペックな脳でいう統計の母数は、指で数えれる程度しかないのだ。但し、これは無意識に処理されるシステムの埒内に限る。脳は基本的に省エネなので負荷がかかるシステムは自然と避けてしまう。ここでいう負荷のかからない領域が、すなわち無意識に処理されるシステムの埒内ということだ。人間の本能といっても過言ではないこの習性により、結論を出すには不十分と考えれば容易にわかることを平然とやってのける。それは統計学に対する知見が有る無しに関わらず、である。ハロー効果がその代表的な例だろう。

吾々人間は一で全てを決めつけてしまう傾向にある。統計的に意味のある「皆」とするためには少なくとも1000人の意見を聞く必要があるだろう。(母集団は日本人としている。)

普通の人間なら日常レベルの淀みなく流れる思考の中で、何かしらの見解を出すときにわざわざ1000人の意見をサンプルとすることはない。裏を返せばごく少数の皆の意見から見解をだすのは普通、なのである。どうやら、木を見て森を見ないのは人間の性のようだ。

以上を踏まえた上で言うが、一を全とするのは間違っていると迄はないにしても、結果として過ちを生むことは避けられないと断言しよう。従って、偏見を生み本質を見逃してしまう原因がここにある。この過ちを人間の性と言ってしまえばそれで終わりだが、こういう言い訳は他人を許すときに使えばいいのであって、自分には決して使ってはいけない。この理由は言わずもがな、であろう。
一は全とする思考傾向から、極論、吾々の言う「皆」から得られた意見を基に構築された常識は、常識でないとも言える。このように吾々の持つ常識には疑う余地が十分あるのだ。

さらに思考を進めると、人間の性が一を全として非常識を形成するのだから、この場合、個々がある特定の一を例外なく全とすると仮定したら、一個の非常識を常識と錯覚した見解を各個が持つ「皆」という触媒によって信じこむ(洗脳される)ことで、非常識が次々と人-人間で連鎖的に感染拡大し、最終的には皆が同じ非常識を抱えているという訳だから、全員が非常識になる、即ち初期状態では個人レベルで非常識だったことが結果的に世間の常識になることに気づく。この人間的エラーは、もはや自然の摂理の一つなのだろう。

この自然の摂理を認め、敢てこの一を全とした場合、この世の中の常識は今まで常識故に疑いもしてこなかったが、元々は全て非常識であったということになる。そう、これが常識の非常識だ。それを知った吾々は当然次の疑問を抱く。

元々の常識、即ち真の常識とは何であろう、と。

これまでの一は全という極端な話により生じたこの疑問は序論に過ぎない。、
この世の中、全とまでは言わないがこの世界には吾々が観測できない真の常識がいくつも隠れていることは確かであろう。

例えば、古代が現代より劣っているという常識に隠れた真の常識だとか。
posted by 猪瀬歩夢 at 01:41| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月21日

馬鹿の美化

馬鹿とは悪か?
馬と鹿は立派な動物なのに・・・
馬鹿とは何か?無知であることだろう。
そうであっても馬鹿のイメージが悪いことに甚だ疑問を抱く。

馬鹿は特権だと思う。みんなもうちょっと馬鹿であることに誇りを持つべきだ。大半の人が馬鹿であることに恥じ、馬鹿であることをやめている。
人間賢くある必要は無いように思える。そもそも他人に賢く見せる、見られる必要はあるのか。人の賢さなんて、局所的に過ぎず知らないことが大半だ。専門とか、得意とかから距離を置いたら、その場所ではだれもが素人のはずだ。要するに大半の領域で無知なのだから森羅万象を母数として平均的に各個人を観測していくと、人間みんな馬鹿に分類されることに気づく。

馬鹿な人間を愚かだというのであれば、俯瞰的に物事を見れていない。自分が馬鹿に分類されていることを知らずに。これこそ愚かな人間に他ならない。愚かな人間は馬鹿の知が著しく欠乏している。馬鹿を否定できる次元にすら立てていない。1次元世界の住人が、3次元物体を観測するようなものである。1次元住人は3次元物体が横切っても、点の消滅としか認識できない。その認識をもって全を理解したような気になっているようなものだ。愚かな人間であることは、自分を差し置いて他者を愚かだと蔑み自分の正しさを疑わない人間であることの必要条件だ。

吾々は馬鹿であるという認識が常識でなければならない。このことをあなたが受け入れれるのであれば、賢く見せる努力をすることは不合理であることに気付くであろう。賢く見せて、評価されて何を得るのだろうか。名声?自尊心?こんなの得たところで、自分の能力が向上することはない。形而上で且つ実体のないものを得たところで、自己成長には全く持って繋がらないことを考えればこのことは自明。なので寧ろかえって、愚かな人間に映りやすい。なぜなら、賢く見せようとすると、無知であることを知られたくない心理が働く。すると、知らないことを聞けなくなる。以降、知識のインプットが抑制される。それが続くと、思考が表面的になり中身のない結論しか出せなくなる。こんな人間を、多少の知見がある他者が観察すれば、中身がない浅い思考回路であることに気づくことは容易であろう。

一方で、馬鹿であることを恥じない人間は、他人からの評価を気にすることは少ない。なぜなら、馬鹿だという自負があれば、自尊心が傷つく要素を持ち合わせないからだ。何でも聞ける。無敵の状態である。そして、馬鹿であると理解した人間が成長することに貪欲であるのならば、知識は日々増える一方である。以上の馬鹿であることの中に、能ある鷹は爪を隠すことの本質的な意味が秘められているように感じる。能ある鷹は馬鹿であることを理解し、馬鹿であるが故に学ぶことに貪欲であるが、自分を馬鹿と思っているので賢く見せようともしない。これを見た他者の目には、必然、爪を隠しているように映る。よって馬鹿は鷹である。
このことが、馬鹿と天才は紙一重だと言われてる真の理由であると私は考えている。

故に、天才になる近道は馬鹿になることである、ということに馬鹿は気づいたであろう。
ラベル:天才 愚か
posted by 猪瀬歩夢 at 23:02| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月29日

好きな人に告白される方法

この世は不条理だ

もっと女性の方から好きであることを告白するという、一般常識が流行してもいいはずである。
なぜ、そんなことがないのか。

ただ、ぼくがモテないからか。
そんなはずは断じてない。 ・・・・思想の自由は皆平等にあるので誰もぼくを責められやしない。

省エネは今や流行は終わっているが、
ぼくは省エネで行こうと思う。

そこで、省エネプランとして意中の女性から好きですと言ってくれる状況をつくり出す方法はないものかと考える。

それではまず、告白してもらいたい女性が好きですと自分に告白するまでの必要条件を時間軸で整理してみよう。

@ぼくに彼女がいないことをそれとなく知ること
Aぼくを好きになること
Bぼくを好きという思いが強くとなること
C自信を得るためにぼくが好意を寄せていることをそれとなく認識すること
Dぼくが他の人にとられるのではないかという不安を感じること
Eぼくが告白してくるかもという雰囲気がないと悟ること
F告白を先延ばしにすることで恋愛関係に発展しないリスクが強まると感じること
Gぼくのことが一番の悩みであり、大いに苦しむこと
H苦しみから解放するには告白しかないと確信すること

自分なりに上手くまとまったと思う。繰り返しになるが思うのは自由だ。
では次に上記の条件をクリアする方法を考えていこう。

ステップ@は簡単だ。コンビニ弁当を毎日食べていることと、土日はやることないから家に引きこもっていることを誰かを利用して伝わるようにすればいい。(タイミングがあれば自分で言うのも可)
ステップAが一番難しい。友好的な好きと、恋愛的な好きがあるためだ。基本、ぼくの情報量を多くもたせることと、負のストレスを与えなければ好意はもつと考える。互いに共通する思い出を長期的に構築するように、地道に積み重ねよう。
ステップBは好きになってくれさえすれば、ステップAを継続すれば連鎖反応的に気持ちは膨らむだろう。実に余裕である。
ステップCは話しているときにそわそわしたり、楽しそうにしたりすれば十分クリア可能だ。
ステップDは仕方なく合コン行っていることがそれとなくリークする、または別の女性と話すところを見られるチャンスを多く作ることでOKだ。
ステップEは草食系男子であることを周囲に自慢する。そして、動かざること山の如しが座右の銘であることを伝える。
ステップFはぼくがロリコンであることを主張すればよい。超簡単
ステップGは@〜Fの条件を満たせば自動的にクリアする。
ステップHは告白以外の選択肢は与えないように、微動だにしないことが重要だ。

パーフェクトな告白される作戦である。これぞ省エネコクられ術である。

そろそろ彼女ができそうな気配を感じてきたが、気のせいではないだろう。



ラベル:好きな人 告白
posted by 猪瀬歩夢 at 23:10| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月27日

世界の創造主

わたしの世界

状況を把握する、ものごとを考える、判断して行動する、なにかを感じる、直感的な思考、
これらは全て自分の脳によって行われる。
ひとは皆、他人の脳を使って直接的に思考することは、まずない。

自分が想像できるできないに関わらず自ら発するすべての事象は
必ず自分の脳というフィルターを通して処理されたものである。

即ち、誰もが平等にオリジナルの世界を所有していることになる。
他者からの影響の大小に関わらず、必ず確実に例外なく、我々人間は、自分の脳で、
世界をとらえ、理解し、その中で生きている。

上に従うと、世界とは自分由来であることは自明の理であり、
自分の脳にある情報量とその組み合わせによって世界を創造しているといえる。

よって、世界とは各個の想いと考えから構築されており、
「世界とはわたしだ」と言っても十分によい。
世界を認識しているのは他でもない私であり、複数の脳を接続する技術のない現在では
他人の脳は直接介入していないのだから。
他人からの影響度は自分の世界観で決まるので、決して矛盾など生じてはいない。

世界は私が創り上げており、その創り上げた世界はわたしでもある。
生きている中でのすべての事象は自分の脳が意識無意識の中で
認識しうるものに限られ、知っていることだけが世界である。

この世はわたしの世界であるのであれば、この世界の神とはわたしのことである。

ではわたしの世界での背景に当たる、その他の物体とは何であるのか。
物理現象に縛られたその他のオプションの、わたしの世界との位置関係はなんなのか。
神であるわたしの世界での人生が思い通りにいかないのはなぜなのか。

この疑問に答えるのなら、知っていることだけの世界だからだ。
すべて知りえないわたしの世界では、知らない事象からもたらされる不確定要素が、
思い通りにいかない要因であると言える。
故に、全知が得られたのならば疑問が生じることない。

全とは過不足なくという意味である。
このことはわたしの世界が全の中の部分であることを意味する。

だが、部分であることに悲観するのは甚だ思慮が浅い。
疑問が生じる、つじつまの合わない等の、不確定要素78%の世界だからこそ、
好奇心という名の快楽が得られる。

言いたいことは沢山あるが
何はともあれ、世界がわたしのものであるという事実は変わりえない。

以下余白










ラベル:世界 創造主
posted by 猪瀬歩夢 at 23:00| 京都 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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