2018年05月04日

過去が劣っているヒューリスティックス

日常的であり、当たり前。
空の色。
花の香り。
鳥の鳴き声。
風の感触。
水の味。

こんな日常にふと影をみた。それは常識である。この常識はあなたの想像した通り、この社会で一般的な、平均的な、多数的な、所謂、一般常識のことだ。
一般常識は正しい、とうい常識は私の中では既に時代遅れの考え方である。
その時代遅れの中でも「現在より過去は劣っている」という考え方。これは暗黙の常識であり、科学分野であってもこの根拠のない常識を大前提にしたロジックが当たり前に受け入れられている。「現在より過去が劣っている」という思考の選択法はアルゴリズムと言うよりかはヒューリスティックスである。「現在より過去が劣っている」と考える人は、信仰心にも似た心理傾向をもつので、これとは逆の考えに対しては排他的である。

「現在より過去が劣っている」と主張するあなたは、その解はアルゴリズム的選択によるものだと主張するに決まっているのでアルゴリズム主張派と分類しよう。その逆が、解は直感的選択によるものだと主張するヒューリスティックス主張派である。
アルゴリズム主張派は人間進化論を何の疑いもなく受け入れていることだろう。人間進化論については根拠が乏しく未だ証明されていないが、それでも日本教育界ではこの人間進化論を採用している。なので、我々が何の疑いも抱かないのは当たり前なのである。
また、「現在より過去が劣っている」と強く納得させるそれらしい理由は我々の常識の中にある。それは、人は生まれて以降、日々を成長していくという常識である。これは、一般常識で、当たり前で、確固たる事実である(と思い込んでいる)。この信条が集団の各脳に深く刻まれ、これを無意識下で保守しようと脳が働くためアルゴリズム主張派は多数派となり、「現在より過去が劣っている」という考え方が常識となるのである。

ここで、冷静になって考えるべきなのが、分数でいう分母である。誤った思考の選択は常に分数の分母を無視して分子だけで正しいと判断する。即ち、ヒューリスティックスなのである。人の記憶は勝手なもので、印象の強い思い出だけを容易に想起できる性質をもっている。人は容易に想起できた記憶(分子)だけで常識と判断する。
このことを踏まえると、成長し続けているということが事実だと確信を持てるのも、それだけ成長できたことが強く印象に残っていて、その部分だけが過去の記憶として容易に想起できたためである。即ち、この過大評価された人生経験の記憶から、「現在より過去が劣っている」ことが当たり前であると拡大解釈するのである。

では「現在より過去が劣っている」ことが間違いだと言えるだけの証拠があるのかということであるが、そんな証拠はない、が結論である。ただ証拠はないが、「現在より過去が劣っている」ことが全てに当てはまるという考え方、即ち分子しか考えないのは間違えであるとは言える。従って、ここでは分母を考えることが最重要である。
ある個人の人生を分母とするのであれば、「現在より過去が劣っている」ことは正しいと言えるかもしれない。だが、分母を個人だけではなく全世界の人の人生とした場合は、不幸な個人(ネガティブな性格)も含まれるので、正しいとも間違っているとも言い難くなる。これが常識の現実である。その中でアルゴリズム主張派は、自分の考えの正当性は半々の確率であるのにも関わらず、寧ろそれを100%正当とみなしてしまう。だからこそ、アルゴリズム主張派に「現在より過去が劣っている」ことが間違っている可能性もあるのだと下記を見て思い至ってほしい。

ここでは、分母を人間の人生単位を引き伸ばして、宇宙誕生から現在までの時間単位で話をするとしよう。
無から有が生まれた。空間の形成。物質の形成。星々の誕生。生物の誕生。人間の誕生。人間社会の発展。そして科学技術の進歩。なんら違和感ない、我々の知るシナリオ。このシナリオを表面的にみれば過去から現在に至るまで成長し続けている、即ち「現在より過去が劣っている」のである。だが、よく考えてほしい。無から有が生まれた事実。そんな有も当初は無機物ばかり。その無機物主体の環境下から生命が生まれた。それが進化して現在の高度なシステムを有した生物が誕生した。いや、何ものかが誕生させた。よくよく考えると、この事実は驚愕である。あなたは何も無い空間から生物を創れるだろうか。 ―いや、条件が厳しすぎたので、時間はいくらでも与えるので手ぶらで1人で月(月に生命は存在しないものとする)に行って人間を創る、はどうだろう。なお、現存する知恵、知識はいくらでも利用可能である。ただし自身の有機物を使ってはいけない。できるだろうか。

まず不可能だと答えよう。何が言いたいか分かるだろうか。
現存の知恵、知識、それらを最大限に駆使したとしても無から人間を創ることは不可能である。葉緑素やミトコンドリアのように気体からエネルギーを生み出す装置を創れないのだから。加えて各機能を備えた臓器の自発形成を可能とするDNAのような記憶指示媒体も、配列は分かってもそのシステムの理解は不十分なので、まだまだ創れないであろう。ただ、ここで注力すべきは、我々の常識からでは不可能に思えるシステムが現時点においては存在しているということだ。生物が誕生した時点でその技術は確立しているといってもよい。生物はいつ誕生したのか。それは今よりずっとずっと昔のことだ。何ものかが誕生させたのだろうか。「何」は不明であるが。それは自然になのか、別の何かによるものなのか。いずれにせよ、何ものかが今よりずっとずーと昔に、現在の不可能を実現させていたという答えには変わりえない。そろそろ言いたいことは分かってきただろうか。現に今の我々という不可能な存在が実在する事実と我々の知識の限界によって、現在は過去より劣っているということが我々に突きつけられているのだ。

従って、「現在より過去が劣っている」とは言えない。過去が現在よりも進んでいた可能性は十分に高いのである。
物は劣化する。生物は老いる。自然の摂理は劣化を受け入れている。時間ベクトルがどちらにせよ。これは日常的であり、当たり前。
これが私のヒューリスティックス。
posted by 猪瀬歩夢 at 01:59| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月11日

この世の真理


この世の真理

即ち、起きた事象に対してどう感じるか

である。
ラベル:この世 心理
posted by 猪瀬歩夢 at 00:02| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月10日

存在のパラドクス

我々は"今"という瞬間を連続的に生きる生き物である。
にも関わらず、"今"を認識することができない。

今、机の上に置いてあるコップは重力と垂直抗力のつりあいにより静止している。この光景を見た人は誰しも、"今" コップが机に置いてあると答えるし、そのことは疑いようのない事実であると考えるであろう。しかし、コップが見えるまでの過程について考えると、この事実は本当は誤りであり、常識という錯覚に覆われた非常識ではないかと懐疑的思想に陥る。ものが見える迄の過程には、光源から発せられた光がコップに当たり、特定の光を反射する瞬間を始点とすると、その時点から反射光が空間を経て目に届き網膜で受信し、その情報が電気信号として脳まで送られ、それを脳が認識するというこの終点までが存在する。即ち我々が見たと言っているその情報にはタイムラグが存在している。ただ、机上のコップを目の近くまで持ってきて光の経路を短くすることで、このタイムラグは限りなく0にできるが、0にはならない。従って、全事象とそれに対する我々の認識の間でのタイムラグは不可避である。

以上より冒頭で述べた、"今"を認識することができないという結論に帰結したわけだが、このことは、「我々の"今"認識している全ては過去の事象である」と言い換えることもできる。

認識は過去でも、未来でもなく、今しかできない。今しかできないのにも関わらず、その認識は全てが過去のものである。"今"見える夜空の某星は数億年前の過去である一方で、"今"見えている机のコップは限りなく0に近いが0ではない過去である。このようにタイムラグは大小様々であるが、過去という意味では同じである。さらには"今"も瞬間瞬間の連続であり流動するが故、その"今"は連続的に過去に移りゆく。

我々の認識しうる"今"は過去の事象であり、その"今"の認識ですら過去へと止めどなく、儚くそして刹那に移りゆき、これは不可逆的である。(経験則:覆水盆に反らず、物理法則:エントロピーの増大の法則参照)

"今"は実際に実在するのか。"今"を証明しようとしても"今"はすぐに過去になり、"今"を観測して今認識したものは全て過去である。結局今を証明することはできない。さらには過去は記憶であり、その記憶は書き換え可能であるため、記憶の真偽は証明しようがない。従って、過去の実在も証明できない。言うまでもないが未来の実在も証明できない。従って、我々の存在も証明できない。("今"は過去の一部であり、その過去自体の信憑性はなく、未来の存在も仮説の域を出ない。我々の存在も過去でしか語れない。このパラドクスはどうも、過去、今、未来というように時間軸を今という不確かなものを原点として区分していることが原因のように感じる)

過去、今、未来。そして我々の存在。それらは全て錯覚にすぎないのか。
この世界は存在すら証明できない異常世界である。
posted by 猪瀬歩夢 at 00:54| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月26日

我々の脳は外部に接続している

スマホ。
略して、スホ。

だがしっくりこないので、以下ではスマホと呼ぶことにしよう。

便利な世の中になったものだ。PCの機能を持つ装置が片手で事足りる時代が来るとは。

最近、関心が尽きない。片手に収まるスマホから、膨大な数の情報を引き出すことができる。スマホは端末なのだから、ネットワークに接続したすべての装置をかき集めれば、両手ではとても収まらりきらないほどの装置になるのは想像できる。ただ見かけ上、この小さなスマホには膨大な情報が含まれているといえる。これは視点の問題だ。円錐は横から見れば▲に見えるし、上から見れば🌑に見える。基本的に三次元住人は二次元しか見れないのと同じように、スマホの原理を知らない住人からすれば、スマホは膨大な情報が含まれている小さな装置にしか見えない。このような住人を一般住人と呼ぼう。

一般住人は考察する。小さなスマホには膨大な情報が含まれることから、情報量と装置の大きさには相関がない。即ち、(装置の大きさは関係ないのだから端末としての機能を備えているのであれば、)装置の大きさを限りなく小さくすることが可能である、と。

従って、我々の常識からすると米粒には情報がほとんど詰まってないように感じるが、米粒に端末としての機能が備わっていればその中に膨大な情報が含まれているということになる。たられば議論しかできないことから解るように、米粒に端末機能が備わっているか否か解らない以上、我々は一般住民である。さらに、情報の出力の仕方や解読法が分からないが故に、微小なものほど含まれる情報量が少ないという誤った常識を構築するのである。この類の誤解は、人間の脳の中には映像・文字・数字・本能・理性・感情・思考など膨大な情報が蓄積されているが、他者がその情報を出力する術をしらなければ、「この人間の脳みそは空っぽだ」と安易に判断するのとどこか似ている。

我々は一般住民であり、その上に無知であることを忘れて、「小さなものの中に膨大な量の情報が含まれている」という可能性を無視しているのだ。この可能性を是とすると、蟻を安易に捉えることができなくなる。なぜなら蟻の中に万物の理論が詰まっている可能性が否定できないからだ。髪の毛一本ですら無視できなくなる。その中の情報を引き出す術を持ち合わせてないだけで量子コンピュータ的な装置かもしれないからだ。物質を形成する原子にも電子状態以外に膨大な情報が含まれているかもしれない。・・・・

一般住人には理解できないことだが、神の立場から言わせてもらえば、微小粒子中へ膨大な情報を閉じ込める(ように見せる)ことを実現するには、端末であること、即ちネットワークに繋がっている必要があることを忘れてはならない。

上記を踏まえた上で考えてほしい。人間が脳に蓄積できるだけの情報量を、外部とのネットワークが遮断された状態で脳と同等以下のサイズの装置を実現することは可能だろうか。仮に不可能だとすれば、人間の脳は我々の理解の埒外にある。

この場合、脳はどこか外部に接続されていると言えるのではないか。

この仮定から得られる帰結は何を意味するのだろうか。

posted by 猪瀬歩夢 at 00:30| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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