2018年01月10日

存在のパラドクス

我々は今という瞬間を連続的に生きる生き物である。
にも関わらず、今を認識することができない。

今、机の上に置いてあるコップは重力と垂直抗力のつりあいにより静止している。この光景を見た人は誰しも、今コップが机に置いてあると答えるし、そのことは疑いようのない事実であると考えるであろう。しかし、コップが見えるまでの過程について考えると、この事実は本当は誤りであり、常識という錯覚に覆われた非常識ではないかと懐疑的思想に陥る。ものを見る過程には、照明から照射された可視光がコップに当たり特定の光だけを反射する瞬間を始点とすると、そこからその反射光が空間を経て目に届き網膜で受信し、その情報が電気信号として脳まで送られ、それを脳が認識するというこの終点までが存在する。即ち我々が見たと言っているその情報にはタイムラグが存在している。机上のコップを目の近くまで持ってきて、光の経路を短くすることで、タイムラグは限りなく0にできるが、0にはならない。従って、全事象とそれに対する我々の認識の間でのタイムラグは不可避である。

以上より冒頭で述べた、今を認識することができないという結論を得たわけだが、このことは、我々の今認識している全ては過去の事象であると言い換えることもできる。

認識は過去でも、未来でもなく、今しかできない。今しかできないのにも関わらず、その認識は全てが過去のものである。今見える夜空の星は何億光年前の過去であり、一方で、今見えている机のコップは限りなく0に近いが0ではない過去である。このようにタイムラグは大小様々であるが、過去という意味では同じである。さらには今も瞬間瞬間の連続であり流動するが故、その今は連続的に過去に移りゆく。

我々の認識しうる今は過去の事象であり、その今の認識ですら過去へと止めどなく、儚くそして刹那に移りゆき、これは不可逆的である。(経験則:覆水盆に反らず、物理法則:エントロピーの増大の法則参照)

今は実際に実在するのか。今を証明しようとしても今はすぐに過去になり、今を観測して今認識したものは全て過去である。結局今を証明することはできない。さらには過去は記憶であり、その記憶は書き換え可能であるため、記憶の真偽は証明しようがない。従って、過去の実在も証明できない。言うまでもないが未来の実在も証明できない。従って、我々の存在も証明できない。(今は過去の一部であり、その過去自体の信憑性はなく、未来の存在も仮説の域を出ない。我々の存在も過去でしか語れない。このパラドクスはどうも、過去、今、未来というように時間軸を今という不確かなものを原点として区分していることが原因のように感じる)

過去、今、未来。そして我々の存在。それらは全て錯覚にすぎないのか。
この世界は存在すら証明できない異常世界である。
posted by 猪瀬歩夢 at 00:54| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月26日

我々の脳は外部に接続している

スマホ。
略して、スホ。

だがしっくりこないので、以下ではスマホと呼ぶことにしよう。

便利な世の中になったものだ。PCの機能を持つ装置が片手で事足りる時代が来るとは。

最近、関心が尽きない。片手に収まるスマホから、膨大な数の情報を引き出すことができる。スマホは端末なのだから、ネットワークに接続したすべての装置をかき集めれば、両手ではとても収まらりきらないほどの装置になるのは想像できる。ただ見かけ上、この小さなスマホには膨大な情報が含まれているといえる。これは視点の問題だ。円錐は横から見れば▲に見えるし、上から見れば🌑に見える。基本的に三次元住人は二次元しか見れないのと同じように、スマホの原理を知らない住人からすれば、スマホは膨大な情報が含まれている小さな装置にしか見えない。このような住人を一般住人と呼ぼう。

一般住人は考察する。小さなスマホには膨大な情報が含まれることから、情報量と装置の大きさには相関がない。即ち、(装置の大きさは関係ないのだから端末としての機能を備えているのであれば、)装置の大きさを限りなく小さくすることが可能である、と。

従って、我々の常識からすると米粒には情報がほとんど詰まってないように感じるが、米粒に端末としての機能が備わっていればその中に膨大な情報が含まれているということになる。たられば議論しかできないことから解るように、米粒に端末機能が備わっているか否か解らない以上、我々は一般住民である。さらに、情報の出力の仕方や解読法が分からないが故に、微小なものほど含まれる情報量が少ないという誤った常識を構築するのである。この類の誤解は、人間の脳の中には映像・文字・数字・本能・理性・感情・思考など膨大な情報が蓄積されているが、他者がその情報を出力する術をしらなければ、「この人間の脳みそは空っぽだ」と安易に判断するのとどこか似ている。

我々は一般住民であり、その上に無知であることを忘れて、「小さなものの中に膨大な量の情報が含まれている」という可能性を無視しているのだ。この可能性を是とすると、蟻を安易に捉えることができなくなる。なぜなら蟻の中に万物の理論が詰まっている可能性が否定できないからだ。髪の毛一本ですら無視できなくなる。その中の情報を引き出す術を持ち合わせてないだけで量子コンピュータ的な装置かもしれないからだ。物質を形成する原子にも電子状態以外に膨大な情報が含まれているかもしれない。・・・・

一般住人には理解できないことだが、神の立場から言わせてもらえば、微小粒子中へ膨大な情報を閉じ込める(ように見せる)ことを実現するには、端末であること、即ちネットワークに繋がっている必要があることを忘れてはならない。

上記を踏まえた上で考えてほしい。人間が脳に蓄積できるだけの情報量を、外部とのネットワークが遮断された状態で脳と同等以下のサイズの装置を実現することは可能だろうか。仮に不可能だとすれば、人間の脳は我々の理解の埒外にある。

この場合、脳はどこか外部に接続されていると言えるのではないか。

この仮定から得られる帰結は何を意味するのだろうか。

posted by 猪瀬歩夢 at 00:30| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月23日

常識の非常識

一は全なのか。

「あの人は変態なんだよ、
                 だって皆言ってたもん」

この類の会話は日常的に繰り広げられる。
当たり前に使われるが故に通常気には留めないが、ふと立ち止まってみると、ある違和感をもつ。
それは、「皆」とはどれだけの人を指すのか、と。

「皆が言ってた」とよく使ってしまうが、皆とは誰かと問われて実際に数えてみると、たった2,3人くらいである。これは面白い。人間のハイスペックな脳でいう統計の母数は、指で数えれる程度しかないのだ。但し、これは無意識に処理されるシステムの埒内に限る。脳は基本的に省エネなので負荷がかかるシステムは自然と避けてしまう。ここでいう負荷のかからない領域が、すなわち無意識に処理されるシステムの埒内ということだ。人間の本能といっても過言ではないこの習性により、結論を出すには不十分と考えれば容易にわかることを平然とやってのける。それは統計学に対する知見が有る無しに関わらず、である。ハロー効果がその代表的な例だろう。

吾々人間は一で全てを決めつけてしまう傾向にある。統計的に意味のある「皆」とするためには少なくとも1000人の意見を聞く必要があるだろう。(母集団は日本人としている。)

普通の人間なら日常レベルの淀みなく流れる思考の中で、何かしらの見解を出すときにわざわざ1000人の意見をサンプルとすることはない。裏を返せばごく少数の皆の意見から見解をだすのは普通、なのである。どうやら、木を見て森を見ないのは人間の性のようだ。

以上を踏まえた上で言うが、一を全とするのは間違っていると迄はないにしても、結果として過ちを生むことは避けられないと断言しよう。従って、偏見を生み本質を見逃してしまう原因がここにある。この過ちを人間の性と言ってしまえばそれで終わりだが、こういう言い訳は他人を許すときに使えばいいのであって、自分には決して使ってはいけない。この理由は言わずもがな、であろう。
一を全とする思考傾向から、極論、吾々の言う「皆」から得られた意見を基に構築された常識は、常識でないとも言える。このように吾々の持つ常識には疑う余地が十分あるのだ。

さらに思考を進めると、人間の性が一を全として非常識を形成するのだから、この場合、個々がある特定の一を例外なく全とすると仮定したら、一個の非常識を常識と錯覚した見解を各個が持つ「皆」という触媒によって信じこむ(洗脳される)ことで、非常識が次々と人-人間で連鎖的に感染拡大し、最終的には皆が同じ非常識を抱えているという訳だから、全員が非常識になる、即ち初期状態では個人レベルで非常識だったことが結果的に世間の常識になることに気づく。この人間的エラーは、もはや自然の摂理の一つなのだろう。

この自然の摂理を認め、敢てこの一を全とした場合、この世の中の常識は今まで常識故に疑いもしてこなかったが、元々は全て非常識であったということになる。そう、これが常識の非常識だ。それを知った吾々は当然次の疑問を抱く。

元々の常識、即ち真の常識とは何であろう、と。

これまでの一は全という極端な話により生じたこの疑問は序論に過ぎない。、
この世の中、全とまでは言わないがこの世界には吾々が観測できない真の常識がいくつも隠れていることは確かであろう。

例えば、古代が現代より劣っているという常識に隠れた真の常識だとか。
posted by 猪瀬歩夢 at 01:41| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月21日

馬鹿の美化

馬鹿とは悪か?
馬と鹿は立派な動物なのに・・・
馬鹿とは何か?無知であることだろう。
そうであっても馬鹿のイメージが悪いことに甚だ疑問を抱く。

馬鹿は特権だと思う。みんなもうちょっと馬鹿であることに誇りを持つべきだ。大半の人が馬鹿であることに恥じ、馬鹿であることをやめている。
人間賢くある必要は無いように思える。そもそも他人に賢く見せる、見られる必要はあるのか。人の賢さなんて、局所的に過ぎず知らないことが大半だ。専門とか、得意とかから距離を置いたら、その場所ではだれもが素人のはずだ。要するに大半の領域で無知なのだから森羅万象を母数として平均的に各個人を観測していくと、人間みんな馬鹿に分類されることに気づく。

馬鹿な人間を愚かだというのであれば、俯瞰的に物事を見れていない。自分が馬鹿に分類されていることを知らずに。これこそ愚かな人間に他ならない。愚かな人間は馬鹿の知が著しく欠乏している。馬鹿を否定できる次元にすら立てていない。1次元世界の住人が、3次元物体を観測するようなものである。1次元住人は3次元物体が横切っても、点の消滅としか認識できない。その認識をもって全を理解したような気になっているようなものだ。愚かな人間であることは、自分を差し置いて他者を愚かだと蔑み自分の正しさを疑わない人間であることの必要条件だ。

吾々は馬鹿であるという認識が常識でなければならない。このことをあなたが受け入れれるのであれば、賢く見せる努力をすることは不合理であることに気付くであろう。賢く見せて、評価されて何を得るのだろうか。名声?自尊心?こんなの得たところで、自分の能力が向上することはない。形而上で且つ実体のないものを得たところで、自己成長には全く持って繋がらないことを考えればこのことは自明。なので寧ろかえって、愚かな人間に映りやすい。なぜなら、賢く見せようとすると、無知であることを知られたくない心理が働く。すると、知らないことを聞けなくなる。以降、知識のインプットが抑制される。それが続くと、思考が表面的になり中身のない結論しか出せなくなる。こんな人間を、多少の知見がある他者が観察すれば、中身がない浅い思考回路であることに気づくことは容易であろう。

一方で、馬鹿であることを恥じない人間は、他人からの評価を気にすることは少ない。なぜなら、馬鹿だという自負があれば、自尊心が傷つく要素を持ち合わせないからだ。何でも聞ける。無敵の状態である。そして、馬鹿であると理解した人間が成長することに貪欲であるのならば、知識は日々増える一方である。以上の馬鹿であることの中に、能ある鷹は爪を隠すことの本質的な意味が秘められているように感じる。能ある鷹は馬鹿であることを理解し、馬鹿であるが故に学ぶことに貪欲であるが、自分を馬鹿と思っているので賢く見せようともしない。これを見た他者の目には、必然、爪を隠しているように映る。よって馬鹿は鷹である。
このことが、馬鹿と天才は紙一重だと言われてる真の理由であると私は考えている。

故に、天才になる近道は馬鹿になることである、ということに馬鹿は気づいたであろう。
ラベル:天才 愚か
posted by 猪瀬歩夢 at 23:02| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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