2018年04月11日

この世の真理


この世の真理

即ち、起きた事象に対してどう感じるか

である。
ラベル:この世 心理
posted by 猪瀬歩夢 at 00:02| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月10日

存在のパラドクス

我々は"今"という瞬間を連続的に生きる生き物である。
にも関わらず、"今"を認識することができない。

今、机の上に置いてあるコップは重力と垂直抗力のつりあいにより静止している。この光景を見た人は誰しも、"今" コップが机に置いてあると答えるし、そのことは疑いようのない事実であると考えるであろう。しかし、コップが見えるまでの過程について考えると、この事実は本当は誤りであり、常識という錯覚に覆われた非常識ではないかと懐疑的思想に陥る。ものが見える迄の過程には、光源から発せられた光がコップに当たり、特定の光を反射する瞬間を始点とすると、その時点から反射光が空間を経て目に届き網膜で受信し、その情報が電気信号として脳まで送られ、それを脳が認識するというこの終点までが存在する。即ち我々が見たと言っているその情報にはタイムラグが存在している。ただ、机上のコップを目の近くまで持ってきて光の経路を短くすることで、このタイムラグは限りなく0にできるが、0にはならない。従って、全事象とそれに対する我々の認識の間でのタイムラグは不可避である。

以上より冒頭で述べた、"今"を認識することができないという結論に帰結したわけだが、このことは、「我々の"今"認識している全ては過去の事象である」と言い換えることもできる。

認識は過去でも、未来でもなく、今しかできない。今しかできないのにも関わらず、その認識は全てが過去のものである。"今"見える夜空の某星は数億年前の過去である一方で、"今"見えている机のコップは限りなく0に近いが0ではない過去である。このようにタイムラグは大小様々であるが、過去という意味では同じである。さらには"今"も瞬間瞬間の連続であり流動するが故、その"今"は連続的に過去に移りゆく。

我々の認識しうる"今"は過去の事象であり、その"今"の認識ですら過去へと止めどなく、儚くそして刹那に移りゆき、これは不可逆的である。(経験則:覆水盆に反らず、物理法則:エントロピーの増大の法則参照)

"今"は実際に実在するのか。"今"を証明しようとしても"今"はすぐに過去になり、"今"を観測して今認識したものは全て過去である。結局今を証明することはできない。さらには過去は記憶であり、その記憶は書き換え可能であるため、記憶の真偽は証明しようがない。従って、過去の実在も証明できない。言うまでもないが未来の実在も証明できない。従って、我々の存在も証明できない。("今"は過去の一部であり、その過去自体の信憑性はなく、未来の存在も仮説の域を出ない。我々の存在も過去でしか語れない。このパラドクスはどうも、過去、今、未来というように時間軸を今という不確かなものを原点として区分していることが原因のように感じる)

過去、今、未来。そして我々の存在。それらは全て錯覚にすぎないのか。
この世界は存在すら証明できない異常世界である。
posted by 猪瀬歩夢 at 00:54| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月26日

我々の脳は外部に接続している

スマホ。
略して、スホ。

だがしっくりこないので、以下ではスマホと呼ぶことにしよう。

便利な世の中になったものだ。PCの機能を持つ装置が片手で事足りる時代が来るとは。

最近、関心が尽きない。片手に収まるスマホから、膨大な数の情報を引き出すことができる。スマホは端末なのだから、ネットワークに接続したすべての装置をかき集めれば、両手ではとても収まらりきらないほどの装置になるのは想像できる。ただ見かけ上、この小さなスマホには膨大な情報が含まれているといえる。これは視点の問題だ。円錐は横から見れば▲に見えるし、上から見れば🌑に見える。基本的に三次元住人は二次元しか見れないのと同じように、スマホの原理を知らない住人からすれば、スマホは膨大な情報が含まれている小さな装置にしか見えない。このような住人を一般住人と呼ぼう。

一般住人は考察する。小さなスマホには膨大な情報が含まれることから、情報量と装置の大きさには相関がない。即ち、(装置の大きさは関係ないのだから端末としての機能を備えているのであれば、)装置の大きさを限りなく小さくすることが可能である、と。

従って、我々の常識からすると米粒には情報がほとんど詰まってないように感じるが、米粒に端末としての機能が備わっていればその中に膨大な情報が含まれているということになる。たられば議論しかできないことから解るように、米粒に端末機能が備わっているか否か解らない以上、我々は一般住民である。さらに、情報の出力の仕方や解読法が分からないが故に、微小なものほど含まれる情報量が少ないという誤った常識を構築するのである。この類の誤解は、人間の脳の中には映像・文字・数字・本能・理性・感情・思考など膨大な情報が蓄積されているが、他者がその情報を出力する術をしらなければ、「この人間の脳みそは空っぽだ」と安易に判断するのとどこか似ている。

我々は一般住民であり、その上に無知であることを忘れて、「小さなものの中に膨大な量の情報が含まれている」という可能性を無視しているのだ。この可能性を是とすると、蟻を安易に捉えることができなくなる。なぜなら蟻の中に万物の理論が詰まっている可能性が否定できないからだ。髪の毛一本ですら無視できなくなる。その中の情報を引き出す術を持ち合わせてないだけで量子コンピュータ的な装置かもしれないからだ。物質を形成する原子にも電子状態以外に膨大な情報が含まれているかもしれない。・・・・

一般住人には理解できないことだが、神の立場から言わせてもらえば、微小粒子中へ膨大な情報を閉じ込める(ように見せる)ことを実現するには、端末であること、即ちネットワークに繋がっている必要があることを忘れてはならない。

上記を踏まえた上で考えてほしい。人間が脳に蓄積できるだけの情報量を、外部とのネットワークが遮断された状態で脳と同等以下のサイズの装置を実現することは可能だろうか。仮に不可能だとすれば、人間の脳は我々の理解の埒外にある。

この場合、脳はどこか外部に接続されていると言えるのではないか。

この仮定から得られる帰結は何を意味するのだろうか。

posted by 猪瀬歩夢 at 00:30| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月23日

常識の非常識

一は全なのか。

「あの人は変態なんだよ、
                 だって皆言ってたもん」

この類の会話は日常的に繰り広げられる。
当たり前に使われるが故に通常気には留めないが、ふと立ち止まってみると、ある違和感をもつ。
それは、「皆」とはどれだけの人を指すのか、と。

「皆が言ってた」とよく使ってしまうが、皆とは誰かと問われて実際に数えてみると、たった2,3人くらいである。これは面白い。人間のハイスペックな脳でいう統計の母数は、指で数えれる程度しかないのだ。但し、これは無意識に処理されるシステムの埒内に限る。脳は基本的に省エネなので負荷がかかるシステムは自然と避けてしまう。ここでいう負荷のかからない領域が、すなわち無意識に処理されるシステムの埒内ということだ。人間の本能といっても過言ではないこの習性により、結論を出すには不十分と考えれば容易にわかることを平然とやってのける。それは統計学に対する知見が有る無しに関わらず、である。ハロー効果がその代表的な例だろう。

吾々人間は一で全てを決めつけてしまう傾向にある。統計的に意味のある「皆」とするためには少なくとも1000人の意見を聞く必要があるだろう。(母集団は日本人としている。)

普通の人間なら日常レベルの淀みなく流れる思考の中で、何かしらの見解を出すときにわざわざ1000人の意見をサンプルとすることはない。裏を返せばごく少数の皆の意見から見解をだすのは普通、なのである。どうやら、木を見て森を見ないのは人間の性のようだ。

以上を踏まえた上で言うが、一を全とするのは間違っていると迄はないにしても、結果として過ちを生むことは避けられないと断言しよう。従って、偏見を生み本質を見逃してしまう原因がここにある。この過ちを人間の性と言ってしまえばそれで終わりだが、こういう言い訳は他人を許すときに使えばいいのであって、自分には決して使ってはいけない。この理由は言わずもがな、であろう。
一を全とする思考傾向から、極論、吾々の言う「皆」から得られた意見を基に構築された常識は、常識でないとも言える。このように吾々の持つ常識には疑う余地が十分あるのだ。

さらに思考を進めると、人間の性が一を全として非常識を形成するのだから、この場合、個々がある特定の一を例外なく全とすると仮定したら、一個の非常識を常識と錯覚した見解を各個が持つ「皆」という触媒によって信じこむ(洗脳される)ことで、非常識が次々と人-人間で連鎖的に感染拡大し、最終的には皆が同じ非常識を抱えているという訳だから、全員が非常識になる、即ち初期状態では個人レベルで非常識だったことが結果的に世間の常識になることに気づく。この人間的エラーは、もはや自然の摂理の一つなのだろう。

この自然の摂理を認め、敢てこの一を全とした場合、この世の中の常識は今まで常識故に疑いもしてこなかったが、元々は全て非常識であったということになる。そう、これが常識の非常識だ。それを知った吾々は当然次の疑問を抱く。

元々の常識、即ち真の常識とは何であろう、と。

これまでの一は全という極端な話により生じたこの疑問は序論に過ぎない。、
この世の中、全とまでは言わないがこの世界には吾々が観測できない真の常識がいくつも隠れていることは確かであろう。

例えば、古代が現代より劣っているという常識に隠れた真の常識だとか。
posted by 猪瀬歩夢 at 01:41| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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