2014年06月27日

完全への誤解

一般的に我々の思い描く完全とは、すべてのひとに好かれ、すべてのことを完璧にこなせ、悩み事がなく、何不自由なく幸せな人生をおくっている自分なのであろう。要は、自分の理想をすべて手にして全ての欲が満たされたとき、いわば完全な状態であるということだ。この完全は時間に依存しない一定の抽象的な定義である。


抽象性を落し、各々の完全についてより具体的に考えると、完全とは相対的であり万物受けする絶対的な定義は存在しないことになる。すなわち、我々の思い描く一定の完全は絶対的に正しいとは言えないのである。ここで、我々は1つの完全の定義に固執する習性があることを無視してはいけない。完全を1つに定め、それに憧れ、目指していること自体が危うくもある。


今この瞬間に、自分の思い描く「完全な自分」は本当に完全であるのか。この疑問が生まれてくるのはごく自然なことである。なぜならば、時間の経過に伴い完全の定義は変化していくのだから。我々は皆、人間社会で生きており、その中で生じる対人関係は流動的なのだから思い描く理想はそれに応じて変化する。だから、明日になれば昨日の完全が否定されるかもしれない。しかし、我々は己の思い描く完全の定義は不変であり、時間に依存しない絶対的なものであると考えている。


では、その思い描く完全な自分であろうとすることは賢い選択といえるだろうか。一定の完全を目指して日々鍛錬することは愚かであると考える。なぜならば、上述したように完全の定義は日々変化するからだ。変化する完全を無視して、古い完全を尊重するのは柔軟性に欠けていると言わざるを得ない。それは環境適応能力の欠如した自分を形成することに他ならない。


ここで疑問が生じる。完全は本当に存在するのか。存在すると考えるなら、その完全は本当に正しい完全なのか。私の考えでは、完全は存在しない。もっと正確に言えば、完全の定義はいろいろな事象が複雑に絡み合うことで高次元化するが故、我々は真の完全に気づくことができない、ということだ。我々人間の考え得る完全は、真の完全にほど遠く、決してそれに及ばない。すなわち、我々の思い描いている完全は真の完全からすれば場違いであり見当違いであるのだ。だから、信頼性に欠ける完全を目標とすることは賢い選択とは言えない。


では真の完全とは何か。自然淘汰されたこの世界そのものがそれにあたると思う。自然こそが完全であるということだ。自然は刻一刻と変化し続け、それに伴い完全を変化させる。自然の流れに身をゆだねたとしたならば、そのときが真の完全を手に入れる好機なのかもしれない。すなわち、自然の変化に伴う自分の変化を適切に把握することこそが重視すべき観点なのである。


まあ、我々はこのような真の完全のことを不完全と呼ぶが。
タグ:完全 誤解 完璧
posted by 猪瀬歩夢 at 22:45| 愛媛 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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