2014年08月04日

他者から評価を求めてはいけない

他者からの評価を望むことはごく自然なことだ。だが、この自然に生ずる心理的願望を現実に求めることは、自分にとって合理的な思考の選択と言えるだろうか。

あなたは、他者から評価されたいと強く願っている。その願望を満たすためにあなたは、その願望に付随するよう、行動することになるだろう(まあ、このとき一種の不自由が生じている訳だが)。例えば、一生懸命仕事を頑張って評価を得ようとするかもしれないし、例えば、人助けをして何らかの形で評価されたいと願っているのかもしれない。このように他者評価要求を抱くことは、何らかの行動を起こさせる活力となるため、あながち悪いこととは言えないし、間違っているとも思えない。

では、あなたはある組織の中で評価要求を根源に誘発した行動を辛抱強く続けていたとしよう。しかし、あなたの持続的頑張りと裏腹に周りからは全く評価されない。あなたの心はいささか不安定な状態であろう。このときのあなたは自身の行動に如何なる評価を下すのだろうか。十中八九、「不可」であろう。

このことは何を意味するのか。他者からの評価要求を目的とした行動(他者評価要求行動)の意味付けは周囲環境に絶対的な決定権があり、その行動が如何に自分のためになろうとも、周りが評価しなければ問答無用で無価値な行動となってしまう。したがって、他者評価要求行動をする者は、周囲から評価されない行動をとることを強く嫌う。すなわち、あなたの行動は周りの評価によって決められており、あなたの行動に自由という二文字は含まれていない。自由の無い行動は、自然に抗うことと等価であるため、膨大な精神的負荷を伴う。よって、他者からの評価要求行動は云わば非合理的衝動と言える。

上記で述べたことから、自然な評価要求はやがて不自然な行動へと至る、というパラドクスが生じていることを示唆しているように思える。しかし、このパラドクスを解く術がある。それは“他者からの”評価を目的として行動しようと思わないことである。そもそも、他者評価要求行動には大きな欠点がある。それは他者からの評価には不確定要素が非常に多い、ということだ。他者から評価されているかどうか知るためにはその評価が何らかの形で、当事者自身に伝わらなければならないという大前提がある。評価が本人に伝わらなければ、たとえ評価されていたとしても、評価されていないということになる。また、他者のする評価の真偽は事実上、評価した本人にしか知りえないため、他者からの評価は厳密には知り得ることは不可能、すなわち不確定なのだ。このことから、他者の評価を目的とするにはリスクが高すぎる、ということに気づく。

ここで、他者からの評価を要求してはいけないのだとすれば、自分の価値を如何に見いだせばいいのかが解らなくなってしまう。しかし、今この思考を受け入れた時点で、あなたは大きな過ちを犯していることになる。それは自分の価値を決めることを他者の課題にしている、という点である。自分の課題を他者に押し付けて、責任逃れしているのだ。

これに従い正しくは、自分の価値を見出すのは他でもない、己自身でなければならない、ということである。我々は他者に評価を要求するのではなく、自分自身に己の評価を要求しなければならない。さらには、他者がどのような評価をしているかは不確定なのだから、他者全員がある一定の評価をしてくれていると考えればいいのである。結局、他者からの評価が「不可」なのか、もしくは「良」なのかを知る術がない以上、自分にとって都合のいい「良」を思考の選択として選ぶことが合理的選択と言えるのではないだろうか。ここにきて「世界を変えられるのは己自身である」という格言が非常に意義深いものであると改めて思う。各個人が認識する世界は己の思考によって映し出されたものであるが故。

まあ、言うまでもないが、ここまでの話は道徳の閾値を越えてはならないということを大前提にしている。明らかに他者に迷惑がかかる行動を、自分に都合のいいように思考の歪曲によって正当化してもいいと言っている訳ではない。他者共存の必要性を顧みず自分の欲望のあるがままに行動するニンゲンは愚の極みである。我々人間が組織に生かされているという事実から決して目を背けてはいけない。我々は仲間なしでは生きていけないのだから。


posted by 猪瀬歩夢 at 22:44| 京都 ☔| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
【神の破綻】

世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。
だから自我は客体認識の反射作用としてある。
これは逆ではない。

しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。
すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと
なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。

これは神と人に共通する倒錯でもある。
それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。
だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。
いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。
あれは空, それは山, これは自分。

しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。
山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。
自分というものはない。
自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。
それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。

そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。
鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。
なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。
言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。

だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。
そんなものはどこにも存在していない。
神, 霊, 悪魔, 人。
そのような名称に対応する実在はない。

それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。
私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。

これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。

だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」


神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。


Posted by 響 at 2014年09月16日 10:36
【真理と自然観】

結論から言って、真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

“ある時、何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか、と。すると友人は、何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし、単純にからっぽという意味でもない。私という意識、世界という感覚そのものの原因のことである。この時、我々は『空・から』という言葉によって、人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化から、その裏側に真の形があることを理解した。そして、我々はこの世界の何処にも居ず、この世界・感覚・魂の納められた躰すなわちこの裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》

目的は、何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路、それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは、或感覚を再び具現させる基盤としての目的経路の原因・因子が再び具現する能力と可能性を与える機構、手段によって、再具現可能性という方向性を得たものである。志向は複数あり、意識中にある凡ゆる感覚的対象に支配される。

『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは、表象下に複数の因子が存在するということである。』

『因子は経験により蓄積され、記憶の記録機構の確立された時点を起源として、意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』

我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し、再具現可能性を持つことが出来る場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でも、因子の具現に対応した感覚的対象(条件)がない場合はこの志向は生じない。但し、意識を介さず、機構に直接作用する物が存在する場合もある。


《生命観》

『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』

『再具現性を与える機構としての己と、具現の方向を決定する志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』


生命は、過去の意識の有り様を何らかの形に変換し保存する記録機構を持ち、これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。

生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり、この志向が再具現の機構としての肉体に作用して変化を生じる。この為廃れる志向が生じる。


*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。

己と自の発展とは、躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され、この志向が再具現の機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなく、その志向により然としてある意識と肉体を変革する存在である。

『志向(作用)→肉体・機構』

然の理(ぜんのことわり)
自、志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。

然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)



Posted by 智慧 at 2014年09月16日 10:37
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