2017年08月23日

常識の非常識

一は全なのか。

「あの人は変態なんだよ、
                 だって皆言ってたもん」

この類の会話は日常的に繰り広げられる。
当たり前に使われるが故に通常気には留めないが、ふと立ち止まってみると、ある違和感をもつ。
それは、「皆」とはどれだけの人を指すのか、と。

「皆が言ってた」とよく使ってしまうが、皆とは誰かと問われて実際に数えてみると、たった2,3人くらいである。これは面白い。人間のハイスペックな脳でいう統計の母数は、指で数えれる程度しかないのだ。但し、これは無意識に処理されるシステムの埒内に限る。脳は基本的に省エネなので負荷がかかるシステムは自然と避けてしまう。ここでいう負荷のかからない領域が、すなわち無意識に処理されるシステムの埒内ということだ。人間の本能といっても過言ではないこの習性により、結論を出すには不十分と考えれば容易にわかることを平然とやってのける。それは統計学に対する知見が有る無しに関わらず、である。ハロー効果がその代表的な例だろう。

吾々人間は一で全てを決めつけてしまう傾向にある。統計的に意味のある「皆」とするためには少なくとも1000人の意見を聞く必要があるだろう。(母集団は日本人としている。)

普通の人間なら日常レベルの淀みなく流れる思考の中で、何かしらの見解を出すときにわざわざ1000人の意見をサンプルとすることはない。裏を返せばごく少数の皆の意見から見解をだすのは普通、なのである。どうやら、木を見て森を見ないのは人間の性のようだ。

以上を踏まえた上で言うが、一を全とするのは間違っていると迄はないにしても、結果として過ちを生むことは避けられないと断言しよう。従って、偏見を生み本質を見逃してしまう原因がここにある。この過ちを人間の性と言ってしまえばそれで終わりだが、こういう言い訳は他人を許すときに使えばいいのであって、自分には決して使ってはいけない。この理由は言わずもがな、であろう。
一は全とする思考傾向から、極論、吾々の言う「皆」から得られた意見を基に構築された常識は、常識でないとも言える。このように吾々の持つ常識には疑う余地が十分あるのだ。

さらに思考を進めると、人間の性が一を全として非常識を形成するのだから、この場合、個々がある特定の一を例外なく全とすると仮定したら、一個の非常識を常識と錯覚した見解を各個が持つ「皆」という触媒によって信じこむ(洗脳される)ことで、非常識が次々と人-人間で連鎖的に感染拡大し、最終的には皆が同じ非常識を抱えているという訳だから、全員が非常識になる、即ち初期状態では個人レベルで非常識だったことが結果的に世間の常識になることに気づく。この人間的エラーは、もはや自然の摂理の一つなのだろう。

この自然の摂理を認め、敢てこの一を全とした場合、この世の中の常識は今まで常識故に疑いもしてこなかったが、元々は全て非常識であったということになる。そう、これが常識の非常識だ。それを知った吾々は当然次の疑問を抱く。

元々の常識、即ち真の常識とは何であろう、と。

これまでの一は全という極端な話により生じたこの疑問は序論に過ぎない。、
この世の中、全とまでは言わないがこの世界には吾々が観測できない真の常識がいくつも隠れていることは確かであろう。

例えば、古代が現代より劣っているという常識に隠れた真の常識だとか。
posted by 猪瀬歩夢 at 01:41| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月21日

馬鹿の美化

馬鹿とは悪か?
馬と鹿は立派な動物なのに・・・
馬鹿とは何か?無知であることだろう。
そうであっても馬鹿のイメージが悪いことに甚だ疑問を抱く。

馬鹿は特権だと思う。みんなもうちょっと馬鹿であることに誇りを持つべきだ。大半の人が馬鹿であることに恥じ、馬鹿であることをやめている。
人間賢くある必要は無いように思える。そもそも他人に賢く見せる、見られる必要はあるのか。人の賢さなんて、局所的に過ぎず知らないことが大半だ。専門とか、得意とかから距離を置いたら、その場所ではだれもが素人のはずだ。要するに大半の領域で無知なのだから森羅万象を母数として平均的に各個人を観測していくと、人間みんな馬鹿に分類されることに気づく。

馬鹿な人間を愚かだというのであれば、俯瞰的に物事を見れていない。自分が馬鹿に分類されていることを知らずに。これこそ愚かな人間に他ならない。愚かな人間は馬鹿の知が著しく欠乏している。馬鹿を否定できる次元にすら立てていない。1次元世界の住人が、3次元物体を観測するようなものである。1次元住人は3次元物体が横切っても、点の消滅としか認識できない。その認識をもって全を理解したような気になっているようなものだ。愚かな人間であることは、自分を差し置いて他者を愚かだと蔑み自分の正しさを疑わない人間であることの必要条件だ。

吾々は馬鹿であるという認識が常識でなければならない。このことをあなたが受け入れれるのであれば、賢く見せる努力をすることは不合理であることに気付くであろう。賢く見せて、評価されて何を得るのだろうか。名声?自尊心?こんなの得たところで、自分の能力が向上することはない。形而上で且つ実体のないものを得たところで、自己成長には全く持って繋がらないことを考えればこのことは自明。なので寧ろかえって、愚かな人間に映りやすい。なぜなら、賢く見せようとすると、無知であることを知られたくない心理が働く。すると、知らないことを聞けなくなる。以降、知識のインプットが抑制される。それが続くと、思考が表面的になり中身のない結論しか出せなくなる。こんな人間を、多少の知見がある他者が観察すれば、中身がない浅い思考回路であることに気づくことは容易であろう。

一方で、馬鹿であることを恥じない人間は、他人からの評価を気にすることは少ない。なぜなら、馬鹿だという自負があれば、自尊心が傷つく要素を持ち合わせないからだ。何でも聞ける。無敵の状態である。そして、馬鹿であると理解した人間が成長することに貪欲であるのならば、知識は日々増える一方である。以上の馬鹿であることの中に、能ある鷹は爪を隠すことの本質的な意味が秘められているように感じる。能ある鷹は馬鹿であることを理解し、馬鹿であるが故に学ぶことに貪欲であるが、自分を馬鹿と思っているので賢く見せようともしない。これを見た他者の目には、必然、爪を隠しているように映る。よって馬鹿は鷹である。
このことが、馬鹿と天才は紙一重だと言われてる真の理由であると私は考えている。

故に、天才になる近道は馬鹿になることである、ということに馬鹿は気づいたであろう。
ラベル:天才 愚か
posted by 猪瀬歩夢 at 23:02| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月29日

好きな人に告白される方法

この世は不条理だ

もっと女性の方から好きであることを告白するという、一般常識が流行してもいいはずである。
なぜ、そんなことがないのか。

ただ、ぼくがモテないからか。
そんなはずは断じてない。 ・・・・思想の自由は皆平等にあるので誰もぼくを責められやしない。

省エネは今や流行は終わっているが、
ぼくは省エネで行こうと思う。

そこで、省エネプランとして意中の女性から好きですと言ってくれる状況をつくり出す方法はないものかと考える。

それではまず、告白してもらいたい女性が好きですと自分に告白するまでの必要条件を時間軸で整理してみよう。

@ぼくに彼女がいないことをそれとなく知ること
Aぼくを好きになること
Bぼくを好きという思いが強くとなること
C自信を得るためにぼくが好意を寄せていることをそれとなく認識すること
Dぼくが他の人にとられるのではないかという不安を感じること
Eぼくが告白してくるかもという雰囲気がないと悟ること
F告白を先延ばしにすることで恋愛関係に発展しないリスクが強まると感じること
Gぼくのことが一番の悩みであり、大いに苦しむこと
H苦しみから解放するには告白しかないと確信すること

自分なりに上手くまとまったと思う。繰り返しになるが思うのは自由だ。
では次に上記の条件をクリアする方法を考えていこう。

ステップ@は簡単だ。コンビニ弁当を毎日食べていることと、土日はやることないから家に引きこもっていることを誰かを利用して伝わるようにすればいい。(タイミングがあれば自分で言うのも可)
ステップAが一番難しい。友好的な好きと、恋愛的な好きがあるためだ。基本、ぼくの情報量を多くもたせることと、負のストレスを与えなければ好意はもつと考える。互いに共通する思い出を長期的に構築するように、地道に積み重ねよう。
ステップBは好きになってくれさえすれば、ステップAを継続すれば連鎖反応的に気持ちは膨らむだろう。実に余裕である。
ステップCは話しているときにそわそわしたり、楽しそうにしたりすれば十分クリア可能だ。
ステップDは仕方なく合コン行っていることがそれとなくリークする、または別の女性と話すところを見られるチャンスを多く作ることでOKだ。
ステップEは草食系男子であることを周囲に自慢する。そして、動かざること山の如しが座右の銘であることを伝える。
ステップFはぼくがロリコンであることを主張すればよい。超簡単
ステップGは@〜Fの条件を満たせば自動的にクリアする。
ステップHは告白以外の選択肢は与えないように、微動だにしないことが重要だ。

パーフェクトな告白される作戦である。これぞ省エネコクられ術である。

そろそろ彼女ができそうな気配を感じてきたが、気のせいではないだろう。



ラベル:好きな人 告白
posted by 猪瀬歩夢 at 23:10| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月27日

世界の創造主

わたしの世界

状況を把握する、ものごとを考える、判断して行動する、なにかを感じる、直感的な思考、
これらは全て自分の脳によって行われる。
ひとは皆、他人の脳を使って直接的に思考することは、まずない。

自分が想像できるできないに関わらず自ら発するすべての事象は
必ず自分の脳というフィルターを通して処理されたものである。

即ち、誰もが平等にオリジナルの世界を所有していることになる。
他者からの影響の大小に関わらず、必ず確実に例外なく、我々人間は、自分の脳で、
世界をとらえ、理解し、その中で生きている。

上に従うと、世界とは自分由来であることは自明の理であり、
自分の脳にある情報量とその組み合わせによって世界を創造しているといえる。

よって、世界とは各個の想いと考えから構築されており、
「世界とはわたしだ」と言っても十分によい。
世界を認識しているのは他でもない私であり、複数の脳を接続する技術のない現在では
他人の脳は直接介入していないのだから。
他人からの影響度は自分の世界観で決まるので、決して矛盾など生じてはいない。

世界は私が創り上げており、その創り上げた世界はわたしでもある。
生きている中でのすべての事象は自分の脳が意識無意識の中で
認識しうるものに限られ、知っていることだけが世界である。

この世はわたしの世界であるのであれば、この世界の神とはわたしのことである。

ではわたしの世界での背景に当たる、その他の物体とは何であるのか。
物理現象に縛られたその他のオプションの、わたしの世界との位置関係はなんなのか。
神であるわたしの世界での人生が思い通りにいかないのはなぜなのか。

この疑問に答えるのなら、知っていることだけの世界だからだ。
すべて知りえないわたしの世界では、知らない事象からもたらされる不確定要素が、
思い通りにいかない要因であると言える。
故に、全知が得られたのならば疑問が生じることない。

全とは過不足なくという意味である。
このことはわたしの世界が全の中の部分であることを意味する。

だが、部分であることに悲観するのは甚だ思慮が浅い。
疑問が生じる、つじつまの合わない等の、不確定要素78%の世界だからこそ、
好奇心という名の快楽が得られる。

言いたいことは沢山あるが
何はともあれ、世界がわたしのものであるという事実は変わりえない。

以下余白










ラベル:世界 創造主
posted by 猪瀬歩夢 at 23:00| 京都 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月30日

私は不死の可能性を有している

私とは何か

私は脳で思考している。
脳は私か
MECEを活用せずとも抜け漏れがあるのは自明

脳とそれ以外の体を形成する有機物で抜け漏れはないはず

脳と外部情報を受信するその他有機物。
細かく言えば生命維持等の器官とかに細分できるが無視

脳だけでは外部情報がインプットされないので記憶ゼロスタートであれば、
思考不可となる。

これを考えれば外部情報を受信するその他有機物は非常に重要だ。

情報は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚 的な感覚で受信している。
受信した情報を蓄積し、蓄積した情報を組み合わせ、思考を成す。

私は脳とそれに接続したその他有機物で思考をしている。
なら、私は脳とそれに接続したその他有機物で思考している人に属した生き物と結論

では、私が死ぬとは何か。
死ぬとは自分を形成する有機物クラスターがゲシュタルト崩壊したようなものか
そうなったら、んー要は生命機能が停止し朽ちたら、思考できなくなるのか。
このことは脳とは量子コンピュータ的なものと仮定した場合、
生涯蓄積した量子化した情報は消滅するということになるか

量子もつれで情報はテレポートするらしい。
量子もつれにある対を無限遠に引き離したとして、
一方の情報を読み取る、同時にもう一方の情報も決定する。

何が言いたい。
私の脳の記憶、即ち量子化情報(状態)と量子もつれにあるもう一方が
どこにあるかわかっていない今現在、(そもそもそんなのがない可能性もある)
あらゆる可能性が考えられる。

世界は私の情報と思考で形成している。
有機物が消滅しても、情報がどこかへテレポートする可能性がある以上、
私が死ぬと私を形成する有機物の消滅が等価であると結論することは難しい。
死ねば量子テレポートにより私の記憶情報が他の有機媒体に転移するかもしれない。

要は
私が死ぬとは私の有する情報の消滅である。

ただ、この結論は私の死を完璧に断言するのは多世界解釈的に難しく、
所謂、「一般的な死後」の世界の可能性を示唆しているものである。

ラベル:もつれ 量子 情報
posted by 猪瀬歩夢 at 00:25| 京都 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月20日

人生得する人の特性


A氏:

私は今、上司X氏から説明を受けている。

「この上司、説明長くて、鬱陶しい上司だな」と眉をひそめる。


一方、B氏:

私は今、上司X氏から説明を受けている。

「この上司、丁寧に説明してくれていい上司だな」と胸を熱くする。


よくある話ではあるけれども、上記は同じ事象に遭遇した場合であっても、とらえ方は大別して二分される。ここで重要なのは上司Xの説明は相手を理解させるのに必要な情報を適切に提示しているため話が長くなるということである。


A氏とB氏どちらが人生で得するのか疑問に思わないだろうか。私の独断と偏見から結論を導き出そうと思う。

@ A氏はいうなれば人の悪いところを見るタイプ⇒ネガティブ観察型(N型)とする

A B氏は対称に人の良いところを見るタイプ⇒ポジティブ観察型(P型)とする


ではN型とP型について考えていく。

まず、N型は他者の悪いところを糧に自分を高める性質をもつ。要は相手を悪く見ることで自己否定を回避し、優位な心理的立場を維持する。このようなタイプは、自分より優位な人間を恐れ、その人を避ける、拒否する、否定する傾向にある。そのため、自分より才能の高い人間からの吸収は望めない。

また、悪いところを見るのに優れているので、賢い人間であれば、他者を反面教師と捉え、自分の行動に制限を課し、己の欠点を最小限に抑えることが可能だ。


次に、P型は相手の良いところを糧に自分を高める性質をもつ。このタイプは自分より才能の高い人間から吸収しようとするため、自分の才能の領域を拡大することができる。


以上より、N型は自己保守性が強いと言え、一方でP型は自己改変性が強いと言える。


従って、N型とP型のどちらが得するかという議論は、自己保守性か自己改変性のどちらが得かという議論に置き換えることができる。


自己保守性が強いタイプは自分が絶対的であるかのように錯覚し、自分を疑わない。そのため、問題があれば基本的に他人に原因があると考える。対して評価されるようなことがあれば、自分のお陰であると主張するだろう。

一方で、自己改変性の強いタイプは自分より他者が優れていると考え、問題が起こればまず自分に原因があると考える。評価されれば他人がいてこその評価であると謙遜する。


この文章を書いているだけで自己保守性の強いタイプに対して嫌悪を抱くのだが。

まず、自己保守性タイプの成長曲線はせいぜい√Xだと思う。成長の傾きが負である理由は外から影響因子は近似的に0であり、自分の中にあるものだけを繋ぎあわせようとするためである。

そして、このタイプは自己中心的、利己的に見え周囲から距離を置かれ成果への相乗効果は見込めない。すなわち成果は自己の能力と等価である。


対する自己改変はこの逆で成長曲線はX^2であり、成果に対しては自分の能力に周囲からの相乗効果が加味され、指数関数となる。


みなまで言わなくても結論は自己改変性のP型が得するタイプである。


うん、P型に幸あれ

ラベル:人生
posted by 猪瀬歩夢 at 22:31| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月13日

私の世界の危機


私の世界

山あり谷ありの環境であっても平和だった私の世界

最近やたら攻撃を受けている。たった一機の戦闘機にだ。
たかが一機に揺さぶられる私の世界。
こんなに弱かったのかと急いで地を固めるが間に合わない。
戦闘機は実弾等で攻撃はしないが、領空侵犯等の嫌がらせを随時行う。
警告を出しても嫌がらせは一定時間とまらない。
嫌がらせに飽きると戦闘機は自己中心的かつ友好的に接っしてくる。
対応に困惑する毎日である。




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ラベル:危機 世界
posted by 猪瀬歩夢 at 21:04| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月11日

トラウマ以外に嫌いなものは本当に存在するのか。


特技は何。と聞かれ、
今はありませんと一拍おいて答えた。

それでは好きなことは何か。と聞かれれば、
アニメ、漫画、哲学、宇宙学、量子学、相対性理論、もしくは現実離れした未知の何かと答えよう。

好きなこととは何ですか。と聞かれれば、
興味があることと答えよう。

興味とはなんですか。と聞かれれば、
自発的に吸い寄せられる現象もしくは物事だと、言葉に詰まりながら答えるだろう。

興味があるとあなたはどうなるのですか。聞かれれば、
興味があることを趣味として実践するようになると、鬱陶しさを覚えながら答えるにちがいない。

私の心境を察した上で、以上の事から結論を述べよ。と恐喝されれば、
しぶしぶ、「自発的に脳内に保存される好奇心を抱く知識全般に付随する体系が興味であり、興味に対する知識を好きなことと認識し、それを主体的に取り入れようとしている現象そのものが趣味である。趣味を極めたものが特技かな。」
と、まとまりのない文章で答える。

この結論をなにか発展できないか、考える心的余裕が生まれたので、以下でやってみる。

まず思考の起点として、好奇心について考えよう。
知的好奇心には全ての知は含まれていないように感じる。
なぜなら、好きなことに対称的な嫌いなことは脳が自発的にその情報の流入を拒否する。
さらに、興味がもてないことに好奇心なんて生まれない。
言ってしまえば、好奇心を感じない物事なんて、正直つまらないのだからみなまで言わなくても
当たり前である。これが、直感的な発言であるは流しておこう。

では、次に何が好き嫌いのトリガーになっているかについて考えるてみよう。
好きなことに付随する情報は脳へ貯蔵しやすく、脳からの放出もしやすいと経験則的に理解される。
ここで、この情報の出し入れの易さは何が決めているのかについて、脳の記憶システムに照らしながら、
考えてみる。脳科学によると海馬や側頭葉にある神経細胞同士の接続パターンが記憶であり、関連性の強い記憶の神経細胞は複数の同じ神経細胞を共有しているらしい。いや、記憶Aの接続パターンと記憶Bの接続パターンが繋がり記憶Cという神経細胞のネットワークが構築され関連性が強固になり、強く記憶されると表現した方が正しいか。このように、情報を強く記憶するまたは記憶し続けるには、神経細胞同士のネットワークが重要であることは理解できるであろう。また、神経細胞のネットワークが小さければ、思い出すという行為も難しいのは確率論で考えれば、分かるだろう。したがって、脳内の神経細胞のネットワークが情報の出し入れのしやすさを決めている。すなわち、巨大または強固なネットワークに関連した情報であるほど、好きな情報に分類されるのだと言えるのではないかと考える。
以上より、好き嫌いのトリガーとは既存の繋がりのある知(に関連するか否か)であると考える。

この好き嫌いのトリガーが既存の知であるならば、それ以前の知はどうなのか。という疑問が生まれる。
知の原点はこの世に生を受けたときからである。補足をしておくが、印象の強い未知の事柄に関しては本能的に記憶は活性化される。この状態が、幼い時はより顕著ということだ。この幼い時に記憶した知の傾向が、将来の好き嫌いを左右すると考えられる。

ここまで述べてきたことは、裏を返せば嫌いなことは好きにすることができるということだ。
好きという感情は既存の繋がりあり知の量とその関連性に指数関数的に比例するのだから、嫌いなことや無関心なことに対して知を増やし、それら知のネットワークを構築すれば好きという感情が生まれる。ただ、苦汁を飲む努力は必要だ。

人間の脳は、ある情報に対してそれを知っていれば関連する既存の知が自発的に想起され、一方で既存の知に関連性の強い未知の情報であればそこに結びつくように記憶される。容易に知を引き出せ、さらに容易に関連する情報を記憶できる事柄に対して、嫌いという概念はトラウマを除けば存在しない。

以上をまとめると、、知を増やすことで好きという感情を創造し、そこから派生する興味を発展させ趣味とし、さらに極めると特技になる。
知を増やすことを意図的にできれば、好きなことなんて無限に作れるということである。

知の数で焼失するようなトラウマ以外の嫌いという感情は錯覚であり見かけ上の感情に等しい。

posted by 猪瀬歩夢 at 23:46| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月28日

時間の取り扱い

桜が咲き始め、
もう1年経つのかと。

時間が絶対的でないのは知っていたが。
時間が経つのは早い。

時間は光速という絶対的基準で定義されており、
重力とかが時間を変動させる因子であると言われているが、
人としての常識的、はたまた生理的感覚に訴えてみると
重力云々は本当に正しいのかと違和感が残る。


意図的にすくい取った記憶を観察しても、
時間が長く感じる時もあれば、短くなる時もある。
この経験からいうに、
退屈な時は重力が増えるのか、と誤った結論に
着地しかねない。”相対性”理論の本質を理解していれば、
こんな結論には絶対に至らないのだが。。

話はそれたが、時間の伸縮性は
生理的感覚に訴えてみると確かに存在する。
生理的立場で見れば物理的時間の概念を疑わずにはいられない。

だが、ちょっと考えると生理的な時間の感覚には欠点があることに気づく。
それは時間の伸縮性は過去の記憶を基にした感覚であるという点だ。

今、この瞬間瞬間からは、時間の伸縮性を説明することができない。
すなわち、過去の記憶を繋ぎあわせた一本の経験を基に時間の伸縮性は
生理的感覚によって説明されるのだ。

記憶ほど、信頼に値しないものはない。
記憶ほど絶対でないのだから。
頭の中に蓄えられた記憶は、
書き換えられるし、消去される。誇張されるし、矮小もされる。
脳みその好き放題にされた記憶を基に時間を語るのは危ういと気づく。

したがって、生理的感覚での時間の伸縮性は錯覚であると言わざるを得ない。

記憶の貯蔵のされ方で、時間感覚は変動するが、
実際の時間は伸縮していないと考えるのがよい。
なので、生理的感覚の違いで他者から時間的に取り残される心配はいらないので
安心してほしい。

しかし、光速近くまで加速運動をするときや、
強い重力場付近で遊ぶときは時間的に取り残される恐れがあるので注意して頂きたい。


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ラベル:時間
posted by 猪瀬歩夢 at 23:45| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月11日

みんなと一緒

ここはどこだろう。

不意にそう思うことはないだろうか。
私だけか?

・・・いや、記憶喪失ではない。

私がおかしいのか。
いや、みんながおかしいのだ。

みんな現実を意図的に見たことはあるか。

みんなこの世界を見慣れてるせいで、意識してみることはできていないだろう。
たぶん

意識して周りを見てみると、ここどこだ?という感覚に囚われる。
そもそもこの世界ってなんだ。とも思う。

別に現実逃避している訳ではない。
ただただ疑問なのだ。

ただただ不気味なのだ。
この世があるという現実。

この世が存在する理由も根拠も分かってないのに。。
このことになんの疑心も抱かず、ごく自然に生活している。

やっぱり、みんながおかしいんじゃないか。
違和感だらけだ。この世の中は

みんなマインドコントロールされてるんじゃないか。
幼いころから違和感だらけの世の中にさらされているせいで、
自然とこの世に洗脳されているのだよ。

だけど、この世の存在に疑心を抱いたところで、
なんの不自由もないし、メリットもない。

ただ、なんとなく疑問に思っただけ。
そして明日から、再びみんなと一緒
ラベル:みんな
posted by 猪瀬歩夢 at 23:54| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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