2017年05月30日

私は不死の可能性を有している

私とは何か

私は脳で思考している。
脳は私か
MECEを活用せずとも抜け漏れがあるのは自明

脳とそれ以外の体を形成する有機物で抜け漏れはないはず

脳と外部情報を受信するその他有機物。
細かく言えば生命維持等の器官とかに細分できるが無視

脳だけでは外部情報がインプットされないので記憶ゼロスタートであれば、
思考不可となる。

これを考えれば外部情報を受信するその他有機物は非常に重要だ。

情報は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚 的な感覚で受信している。
受信した情報を蓄積し、蓄積した情報を組み合わせ、思考を成す。

私は脳とそれに接続したその他有機物で思考をしている。
なら、私は脳とそれに接続したその他有機物で思考している人に属した生き物と結論

では、私が死ぬとは何か。
死ぬとは自分を形成する有機物クラスターがゲシュタルト崩壊したようなものか
そうなったら、んー要は生命機能が停止し朽ちたら、思考できなくなるのか。
このことは脳とは量子コンピュータ的なものと仮定した場合、
生涯蓄積した量子化した情報は消滅するということになるか

量子もつれで情報はテレポートするらしい。
量子もつれにある対を無限遠に引き離したとして、
一方の情報を読み取る、同時にもう一方の情報も決定する。

何が言いたい。
私の脳の記憶、即ち量子化情報(状態)と量子もつれにあるもう一方が
どこにあるかわかっていない今現在、(そもそもそんなのがない可能性もある)
あらゆる可能性が考えられる。

世界は私の情報と思考で形成している。
有機物が消滅しても、情報がどこかへテレポートする可能性がある以上、
私が死ぬと私を形成する有機物の消滅が等価であると結論することは難しい。
死ねば量子テレポートにより私の記憶情報が他の有機媒体に転移するかもしれない。

要は
私が死ぬとは私の有する情報の消滅である。

ただ、この結論は私の死を完璧に断言するのは多世界解釈的に難しく、
所謂、「一般的な死後」の世界の可能性を示唆しているものである。

posted by 猪瀬歩夢 at 00:25| 京都 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月20日

人生得する人の特性


A氏:

私は今、上司X氏から説明を受けている。

「この上司、説明長くて、鬱陶しい上司だな」と眉をひそめる。


一方、B氏:

私は今、上司X氏から説明を受けている。

「この上司、丁寧に説明してくれていい上司だな」と胸を熱くする。


よくある話ではあるけれども、上記は同じ事象に遭遇した場合であっても、とらえ方は大別して二分される。ここで重要なのは上司Xの説明は相手を理解させるのに必要な情報を適切に提示しているため話が長くなるということである。


A氏とB氏どちらが人生で得するのか疑問に思わないだろうか。私の独断と偏見から結論を導き出そうと思う。

@ A氏はいうなれば人の悪いところを見るタイプ⇒ネガティブ観察型(N型)とする

A B氏は対称に人の良いところを見るタイプ⇒ポジティブ観察型(P型)とする


ではN型とP型について考えていく。

まず、N型は他者の悪いところを糧に自分を高める性質をもつ。要は相手を悪く見ることで自己否定を回避し、優位な心理的立場を維持する。このようなタイプは、自分より優位な人間を恐れ、その人を避ける、拒否する、否定する傾向にある。そのため、自分より才能の高い人間からの吸収は望めない。

また、悪いところを見るのに優れているので、賢い人間であれば、他者を反面教師と捉え、自分の行動に制限を課し、己の欠点を最小限に抑えることが可能だ。


次に、P型は相手の良いところを糧に自分を高める性質をもつ。このタイプは自分より才能の高い人間から吸収しようとするため、自分の才能の領域を拡大することができる。


以上より、N型は自己保守性が強いと言え、一方でP型は自己改変性が強いと言える。


従って、N型とP型のどちらが得するかという議論は、自己保守性か自己改変性のどちらが得かという議論に置き換えることができる。


自己保守性が強いタイプは自分が絶対的であるかのように錯覚し、自分を疑わない。そのため、問題があれば基本的に他人に原因があると考える。対して評価されるようなことがあれば、自分のお陰であると主張するだろう。

一方で、自己改変性の強いタイプは自分より他者が優れていると考え、問題が起こればまず自分に原因があると考える。評価されれば他人がいてこその評価であると謙遜する。


この文章を書いているだけで自己保守性の強いタイプに対して嫌悪を抱くのだが。

まず、自己保守性タイプの成長曲線はせいぜい√Xだと思う。成長の傾きが負である理由は外から影響因子は近似的に0であり、自分の中にあるものだけを繋ぎあわせようとするためである。

そして、このタイプは自己中心的、利己的に見え周囲から距離を置かれ成果への相乗効果は見込めない。すなわち成果は自己の能力と等価である。


対する自己改変はこの逆で成長曲線はX^2であり、成果に対しては自分の能力に周囲からの相乗効果が加味され、指数関数となる。


みなまで言わなくても結論は自己改変性のP型が得するタイプである。


うん、P型に幸あれ

タグ:人生
posted by 猪瀬歩夢 at 22:31| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月13日

私の世界の危機


私の世界

山あり谷ありの環境であっても平和だった私の世界

最近やたら攻撃を受けている。たった一機の戦闘機にだ。
たかが一機に揺さぶられる私の世界。
こんなに弱かったのかと急いで地を固めるが間に合わない。
戦闘機は実弾等で攻撃はしないが、領空侵犯等の嫌がらせを随時行う。
警告を出しても嫌がらせは一定時間とまらない。
嫌がらせに飽きると戦闘機は自己中心的かつ友好的に接っしてくる。
対応に困惑する毎日である。




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タグ:危機 世界
posted by 猪瀬歩夢 at 21:04| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月11日

トラウマ以外に嫌いなものは本当に存在するのか。


特技は何。と聞かれ、
今はありませんと一拍おいて答えた。

それでは好きなことは何か。と聞かれれば、
アニメ、漫画、哲学、宇宙学、量子学、相対性理論、もしくは現実離れした未知の何かと答えよう。

好きなこととは何ですか。と聞かれれば、
興味があることと答えよう。

興味とはなんですか。と聞かれれば、
自発的に吸い寄せられる現象もしくは物事だと、言葉に詰まりながら答えるだろう。

興味があるとあなたはどうなるのですか。聞かれれば、
興味があることを趣味として実践するようになると、鬱陶しさを覚えながら答えるにちがいない。

私の心境を察した上で、以上の事から結論を述べよ。と恐喝されれば、
しぶしぶ、「自発的に脳内に保存される好奇心を抱く知識全般に付随する体系が興味であり、興味に対する知識を好きなことと認識し、それを主体的に取り入れようとしている現象そのものが趣味である。趣味を極めたものが特技かな。」
と、まとまりのない文章で答える。

この結論をなにか発展できないか、考える心的余裕が生まれたので、以下でやってみる。

まず思考の起点として、好奇心について考えよう。
知的好奇心には全ての知は含まれていないように感じる。
なぜなら、好きなことに対称的な嫌いなことは脳が自発的にその情報の流入を拒否する。
さらに、興味がもてないことに好奇心なんて生まれない。
言ってしまえば、好奇心を感じない物事なんて、正直つまらないのだからみなまで言わなくても
当たり前である。これが、直感的な発言であるは流しておこう。

では、次に何が好き嫌いのトリガーになっているかについて考えるてみよう。
好きなことに付随する情報は脳へ貯蔵しやすく、脳からの放出もしやすいと経験則的に理解される。
ここで、この情報の出し入れの易さは何が決めているのかについて、脳の記憶システムに照らしながら、
考えてみる。脳科学によると海馬や側頭葉にある神経細胞同士の接続パターンが記憶であり、関連性の強い記憶の神経細胞は複数の同じ神経細胞を共有しているらしい。いや、記憶Aの接続パターンと記憶Bの接続パターンが繋がり記憶Cという神経細胞のネットワークが構築され関連性が強固になり、強く記憶されると表現した方が正しいか。このように、情報を強く記憶するまたは記憶し続けるには、神経細胞同士のネットワークが重要であることは理解できるであろう。また、神経細胞のネットワークが小さければ、思い出すという行為も難しいのは確率論で考えれば、分かるだろう。したがって、脳内の神経細胞のネットワークが情報の出し入れのしやすさを決めている。すなわち、巨大または強固なネットワークに関連した情報であるほど、好きな情報に分類されるのだと言えるのではないかと考える。
以上より、好き嫌いのトリガーとは既存の繋がりのある知(に関連するか否か)であると考える。

この好き嫌いのトリガーが既存の知であるならば、それ以前の知はどうなのか。という疑問が生まれる。
知の原点はこの世に生を受けたときからである。補足をしておくが、印象の強い未知の事柄に関しては本能的に記憶は活性化される。この状態が、幼い時はより顕著ということだ。この幼い時に記憶した知の傾向が、将来の好き嫌いを左右すると考えられる。

ここまで述べてきたことは、裏を返せば嫌いなことは好きにすることができるということだ。
好きという感情は既存の繋がりあり知の量とその関連性に指数関数的に比例するのだから、嫌いなことや無関心なことに対して知を増やし、それら知のネットワークを構築すれば好きという感情が生まれる。ただ、苦汁を飲む努力は必要だ。

人間の脳は、ある情報に対してそれを知っていれば関連する既存の知が自発的に想起され、一方で既存の知に関連性の強い未知の情報であればそこに結びつくように記憶される。容易に知を引き出せ、さらに容易に関連する情報を記憶できる事柄に対して、嫌いという概念はトラウマを除けば存在しない。

以上をまとめると、、知を増やすことで好きという感情を創造し、そこから派生する興味を発展させ趣味とし、さらに極めると特技になる。
知を増やすことを意図的にできれば、好きなことなんて無限に作れるということである。

知の数で焼失するようなトラウマ以外の嫌いという感情は錯覚であり見かけ上の感情に等しい。

posted by 猪瀬歩夢 at 23:46| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月28日

時間の取り扱い

桜が咲き始め、
もう1年経つのかと。

時間が絶対的でないのは知っていたが。
時間が経つのは早い。

時間は光速という絶対的基準で定義されており、
重力とかが時間を変動させる因子であると言われているが、
人としての常識的、はたまた生理的感覚に訴えてみると
重力云々は本当に正しいのかと違和感が残る。


意図的にすくい取った記憶を観察しても、
時間が長く感じる時もあれば、短くなる時もある。
この経験からいうに、
退屈な時は重力が増えるのか、と誤った結論に
着地しかねない。”相対性”理論の本質を理解していれば、
こんな結論には絶対に至らないのだが。。

話はそれたが、時間の伸縮性は
生理的感覚に訴えてみると確かに存在する。
生理的立場で見れば物理的時間の概念を疑わずにはいられない。

だが、ちょっと考えると生理的な時間の感覚には欠点があることに気づく。
それは時間の伸縮性は過去の記憶を基にした感覚であるという点だ。

今、この瞬間瞬間からは、時間の伸縮性を説明することができない。
すなわち、過去の記憶を繋ぎあわせた一本の経験を基に時間の伸縮性は
生理的感覚によって説明されるのだ。

記憶ほど、信頼に値しないものはない。
記憶ほど絶対でないのだから。
頭の中に蓄えられた記憶は、
書き換えられるし、消去される。誇張されるし、矮小もされる。
脳みその好き放題にされた記憶を基に時間を語るのは危ういと気づく。

したがって、生理的感覚での時間の伸縮性は錯覚であると言わざるを得ない。

記憶の貯蔵のされ方で、時間感覚は変動するが、
実際の時間は伸縮していないと考えるのがよい。
なので、生理的感覚の違いで他者から時間的に取り残される心配はいらないので
安心してほしい。

しかし、光速近くまで加速運動をするときや、
強い重力場付近で遊ぶときは時間的に取り残される恐れがあるので注意して頂きたい。


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タグ:時間
posted by 猪瀬歩夢 at 23:45| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月11日

みんなと一緒

ここはどこだろう。

不意にそう思うことはないだろうか。
私だけか?

・・・いや、記憶喪失ではない。

私がおかしいのか。
いや、みんながおかしいのだ。

みんな現実を意図的に見たことはあるか。

みんなこの世界を見慣れてるせいで、意識してみることはできていないだろう。
たぶん

意識して周りを見てみると、ここどこだ?という感覚に囚われる。
そもそもこの世界ってなんだ。とも思う。

別に現実逃避している訳ではない。
ただただ疑問なのだ。

ただただ不気味なのだ。
この世があるという現実。

この世が存在する理由も根拠も分かってないのに。。
このことになんの疑心も抱かず、ごく自然に生活している。

やっぱり、みんながおかしいんじゃないか。
違和感だらけだ。この世の中は

みんなマインドコントロールされてるんじゃないか。
幼いころから違和感だらけの世の中にさらされているせいで、
自然とこの世に洗脳されているのだよ。

だけど、この世の存在に疑心を抱いたところで、
なんの不自由もないし、メリットもない。

ただ、なんとなく疑問に思っただけ。
そして明日から、再びみんなと一緒
タグ:みんな
posted by 猪瀬歩夢 at 23:54| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月22日

自分への疑心


あゝー 

自分の才能のなさに落胆せざるを得ない。

ここまで、能力がないのかと自分の力なさに危機感を覚える。

しかし、なにもやる気にならない。

本来なら、自己啓発で己を高めて、周りに気づかれないように、

差をつけようとするところなのだが。。

頭が回らない。頭を使っても使ったと思えるほどの、結果にならない。

頭がさえない。何とか振り絞るまではいかないが、相応にやってるつもりではあるが、

全てが中途半端な結果に収束する。平凡以下の自分。。

戦うフィールドが変わるとここまで、力がないのかと己自身の力に不安を感じる。

今まで築きあげてきた哲学が根底から崩れていく。

くそ!

でも、自分の可能性への希望は捨ててはいない。
まだ、今があるのだから、未来がある。
未来は未知なのだからあらゆる可能性がある。
その中で、素晴らしい可能性を信じてみようと思う。

今とこれからの試練で、耐え難い相当なものが来ると思うが、それでもなお、
自分を信じぬこうと思う。


あの日の約束を果たすために。

タグ:自分 疑心
posted by 猪瀬歩夢 at 23:50| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月22日

生の解

生とは思考か

生きてやがて死に逝く我が人生。

生の意味を考える。

生の意味が分かると同時に、死後の意味も分かるような気がするからだ。

生きる意味は生きているから考えることができる。

死ねば生の意味なんて無意味になる。

なるほど、生きている内に考えねばならない、生の意味。

では、生とはどういう意味か。

生物学的知見はどうでもよくって、哲学的に考えると、

生とは、生きてると実感し、それを認識することが可能である今という不連続かつ刹那な瞬間瞬間を慣性の法則により幅を持った時間まで繋ぎ合せた時空内で思考することだと一般的に思わないか。

思考なければ、生とは何かという謎すら生まれてこない。思考無き世界では、生の意味は消滅する。

思考していても、生きていると実感できなければ、生は感じない。すなわち、生を有していないことになる。

生物学的に生きている人間であればどんな状況であれ、意識すれば生を感じることはできる。

このことから、人間において、思考可能ならば、生を有していると言える。

よって、生は思考と考える。


以上、Q.E.D.

タグ: 生きる
posted by 猪瀬歩夢 at 00:07| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月20日

独り言

今日はいい天気だ。

でも身体が重い。

長い休みの間、インドア派の力を十分に発揮する。

一人遊びは相当な体力が必要だ。

なにをしても心が満たされない日々。

孤独を感じる。

違う世界に干渉したいと思う。

心が満たされると思うからだ。

何がしたいのだろうか。

せっかく生きているのに、人生を楽しんでいないのだなあと感じながら過ぎる、

流動的な時間。

何かしたいが、したいことが見つからない。

何かにはまりたいが、はまりたいことがなんなのか解らない。

ルーチン化した我が世界、変化のない世界観。

飽和。思考の飽和。

飽和は平衡。平衡を崩さなければならない。

加熱だ。加熱の方法は多数あるが、いずれもきっかけが必要

ビックバンのような神の一撃があれば

人生の物足りなさに嫌気がさしている。

欲深いのか。そうかもしれない。

もっと人生を楽しみたい。なにかが足りない。

思考は完全に止まってしまった。





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posted by 猪瀬歩夢 at 16:22| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月07日

第一印象を良くすることは愚かな選択

よく耳にする、大人の口癖
第一印象は良くした方がいい。と、
第一印象は重要ではあるが、良くする必要はないと私は断言する。

第一印象が非常に良い人をよく目にはする。大人の教育がしっかりと世の中に浸透している証拠だろう。
第一印象は確かに重要である。その人の印象は初対面でほとんど決まるというのだから。

だが、第一印象を良くする必要はあるのかと、よく思う。
なぜなら、第一印象の非常に良い人が1年後に印象の良かったためしがない。
第一印象は後々のその人の印象を決める基準でしかない。

人は良い点があれば悪い点も必ず同時に存在する。
第一印象を決める時、良い点を出すことは賢い選択なのだろか。

まっさらな白紙を見ても人は白以外認識しない。しかし、その白紙に黒色で点を書いたなら、黒点があることを強く認識するようになる。真っ黒な紙に白点を書く場合も同様である。

これで話を進める下準備はできた。ここからはモノクロ世界で話を進めよう。
白色は良い面、黒色は悪い面を現すとしよう。初対面での相手の印象は紙すらない状態、すなわち無色の紙である。そして、第一印象によって相手の持つ紙の色は黒なのか白なのかが決まる。白い紙を持つか黒い紙を持つかはあなたの自由だ。

第一印象が良い人は、不純を含まない真っ新な白い紙を所有している。なぜなら、第一印象がその人の全印象を決める傾向にあるのだから、紙全体の色は一瞬で白に染まってしまう、という訳だ。初めは白紙を見て純白の美しさに目が眩むかもしれない。だが、時が過ぎれば白への意識は弱くなる。それからというものの白紙を所有している人がいい事をし続けたとしても紙の色に変化は見られない。ある日、白い紙を所有する人がぼろを出した。それはその人の悪い点が出たということだ。そう、ついに所有している純白の紙に黒点が付いてしまったのだ。この時、紙一面は黒色に染まらない。なぜなら、第二印象以降の印象は第一ほど印象が強くないからだ。白紙に書かれた黒点はものすごく目立つ。その人が所有する紙を見たすべての人は確実に黒点にしか目がいかないだろう。白への認識は限りなく無の状態だ。仮に、その付着した黒点を良い点を出すことで消そうとしたとしよう。しかし、消すのは容易ではない。第一印象後は何をしても、色を点として描くことしか叶わないのだから。付着した黒点をピンポイントで消すことは至難の業だ。確率的に考えればわかること。黒点を消したければ紙に途方もない量の白点をプロットしなければなるまい。白紙に付いた黒一点は目立ちすぎる。白紙を持つ人の代償がこれだ。代償が大きすぎる。良い面よりも悪い点が目立つとは・・・。

ここまで説明すれば、白い紙と黒い紙のどちらを所有する方が賢い選択かは解るだろう。

黒い紙に決まっている。黒い紙を所有しておけば、自然に白点がプロットされる。白点を全く付着させないなど不可能に近い。その付着した白点は、感覚が平衡と化した我々一般人の目には白紙を持つ人の白よりも際立って目立つ。そう、黒い紙を持つ人は良い点が目立つのだ。その良い点の出現によって紙の黒色への意識は背景と等価になる、すなわち認識されにくいものとなっている。白点ひとつで悪い面への認識を限りなく弱くしたのだ。しかも、時間の経過とともに自然と白点は目立つようになっていく。この上ない報酬である。

大人の言う「第一印象を良くすべき」ということは間違っている。いや、正確には賢い選択ではない。面接のように短い時間で評価してもらわなければならない時ならば仕様がないことだが、そんな状況、一般的でない。

だが、第一印象に重きを置いているのは評価しよう。第一印象が重要であることには変わりないのだから。人は第一印象に左右されやすい生き物。これは確実に人間の弱点である。人間は表面重視傾向が強い。短時間内に人をだますなら第一印象だろう。だが、第一印象が第二印象以降、まっさらな背景になることは留意しておきたい。すなわち、第一印象で相手を騙しつづけるということは、長い時間その相手と共に過ごしてはいけないということだ。逆にこれを逆手に取れば、第一印象をあえて悪くすることで、それ以降良い印象を相手に与えやすいということになる。

まあ、私は人を騙すことは道徳的に良くないと思うが。



タグ: 第一印象
posted by 猪瀬歩夢 at 21:47| 京都 ☁| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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