2018年05月04日

過去が劣っているヒューリスティックス

日常的であり、当たり前。
空の色。
花の香り。
鳥の鳴き声。
風の感触。
水の味。

こんな日常にふと影をみた。それは常識である。この常識はあなたの想像した通り、この社会で一般的な、平均的な、多数的な、所謂、一般常識のことだ。
一般常識は正しい、とうい常識は私の中では既に時代遅れの考え方である。
その時代遅れの中でも「現在より過去は劣っている」という考え方。これは暗黙の常識であり、科学分野であってもこの根拠のない常識を大前提にしたロジックが当たり前に受け入れられている。「現在より過去が劣っている」という思考の選択法はアルゴリズムと言うよりかはヒューリスティックスである。「現在より過去が劣っている」と考える人は、信仰心にも似た心理傾向をもつので、これとは逆の考えに対しては排他的である。

「現在より過去が劣っている」と主張するあなたは、その解はアルゴリズム的選択によるものだと主張するに決まっているのでアルゴリズム主張派と分類しよう。その逆が、解は直感的選択によるものだと主張するヒューリスティックス主張派である。
アルゴリズム主張派は人間進化論を何の疑いもなく受け入れていることだろう。人間進化論については根拠が乏しく未だ証明されていないが、それでも日本教育界ではこの人間進化論を採用している。なので、我々が何の疑いも抱かないのは当たり前なのである。
また、「現在より過去が劣っている」と強く納得させるそれらしい理由は我々の常識の中にある。それは、人は生まれて以降、日々を成長していくという常識である。これは、一般常識で、当たり前で、確固たる事実である(と思い込んでいる)。この信条が集団の各脳に深く刻まれ、これを無意識下で保守しようと脳が働くためアルゴリズム主張派は多数派となり、「現在より過去が劣っている」という考え方が常識となるのである。

ここで、冷静になって考えるべきなのが、分数でいう分母である。誤った思考の選択は常に分数の分母を無視して分子だけで正しいと判断する。即ち、ヒューリスティックスなのである。人の記憶は勝手なもので、印象の強い思い出だけを容易に想起できる性質をもっている。人は容易に想起できた記憶(分子)だけで常識と判断する。
このことを踏まえると、成長し続けているということが事実だと確信を持てるのも、それだけ成長できたことが強く印象に残っていて、その部分だけが過去の記憶として容易に想起できたためである。即ち、この過大評価された人生経験の記憶から、「現在より過去が劣っている」ことが当たり前であると拡大解釈するのである。

では「現在より過去が劣っている」ことが間違いだと言えるだけの証拠があるのかということであるが、そんな証拠はない、が結論である。ただ証拠はないが、「現在より過去が劣っている」ことが全てに当てはまるという考え方、即ち分子しか考えないのは間違えであるとは言える。従って、ここでは分母を考えることが最重要である。
ある個人の人生を分母とするのであれば、「現在より過去が劣っている」ことは正しいと言えるかもしれない。だが、分母を個人だけではなく全世界の人の人生とした場合は、不幸な個人(ネガティブな性格)も含まれるので、正しいとも間違っているとも言い難くなる。これが常識の現実である。その中でアルゴリズム主張派は、自分の考えの正当性は半々の確率であるのにも関わらず、寧ろそれを100%正当とみなしてしまう。だからこそ、アルゴリズム主張派に「現在より過去が劣っている」ことが間違っている可能性もあるのだと下記を見て思い至ってほしい。

ここでは、分母を人間の人生単位を引き伸ばして、宇宙誕生から現在までの時間単位で話をするとしよう。
無から有が生まれた。空間の形成。物質の形成。星々の誕生。生物の誕生。人間の誕生。人間社会の発展。そして科学技術の進歩。なんら違和感ない、我々の知るシナリオ。このシナリオを表面的にみれば過去から現在に至るまで成長し続けている、即ち「現在より過去が劣っている」のである。だが、よく考えてほしい。無から有が生まれた事実。そんな有も当初は無機物ばかり。その無機物主体の環境下から生命が生まれた。それが進化して現在の高度なシステムを有した生物が誕生した。いや、何ものかが誕生させた。よくよく考えると、この事実は驚愕である。あなたは何も無い空間から生物を創れるだろうか。 ―いや、条件が厳しすぎたので、時間はいくらでも与えるので手ぶらで1人で月(月に生命は存在しないものとする)に行って人間を創る、はどうだろう。なお、現存する知恵、知識はいくらでも利用可能である。ただし自身の有機物を使ってはいけない。できるだろうか。

まず不可能だと答えよう。何が言いたいか分かるだろうか。
現存の知恵、知識、それらを最大限に駆使したとしても無から人間を創ることは不可能である。葉緑素やミトコンドリアのように気体からエネルギーを生み出す装置を創れないのだから。加えて各機能を備えた臓器の自発形成を可能とするDNAのような記憶指示媒体も、配列は分かってもそのシステムの理解は不十分なので、まだまだ創れないであろう。ただ、ここで注力すべきは、我々の常識からでは不可能に思えるシステムが現時点においては存在しているということだ。生物が誕生した時点でその技術は確立しているといってもよい。生物はいつ誕生したのか。それは今よりずっとずっと昔のことだ。何ものかが誕生させたのだろうか。「何」は不明であるが。それは自然になのか、別の何かによるものなのか。いずれにせよ、何ものかが今よりずっとずーと昔に、現在の不可能を実現させていたという答えには変わりえない。そろそろ言いたいことは分かってきただろうか。現に今の我々という不可能な存在が実在する事実と我々の知識の限界によって、現在は過去より劣っているということが我々に突きつけられているのだ。

従って、「現在より過去が劣っている」とは言えない。過去が現在よりも進んでいた可能性は十分に高いのである。
物は劣化する。生物は老いる。自然の摂理は劣化を受け入れている。時間ベクトルがどちらにせよ。これは日常的であり、当たり前。
これが私のヒューリスティックス。
posted by 猪瀬歩夢 at 01:59| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月11日

この世の真理


この世の真理

即ち、起きた事象に対してどう感じるか

である。
ラベル:この世 心理
posted by 猪瀬歩夢 at 00:02| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月10日

存在のパラドクス

我々は"今"という瞬間を連続的に生きる生き物である。
にも関わらず、"今"を認識することができない。

今、机の上に置いてあるコップは重力と垂直抗力のつりあいにより静止している。この光景を見た人は誰しも、"今" コップが机に置いてあると答えるし、そのことは疑いようのない事実であると考えるであろう。しかし、コップが見えるまでの過程について考えると、この事実は本当は誤りであり、常識という錯覚に覆われた非常識ではないかと懐疑的思想に陥る。ものが見える迄の過程には、光源から発せられた光がコップに当たり、特定の光を反射する瞬間を始点とすると、その時点から反射光が空間を経て目に届き網膜で受信し、その情報が電気信号として脳まで送られ、それを脳が認識するというこの終点までが存在する。即ち我々が見たと言っているその情報にはタイムラグが存在している。ただ、机上のコップを目の近くまで持ってきて光の経路を短くすることで、このタイムラグは限りなく0にできるが、0にはならない。従って、全事象とそれに対する我々の認識の間でのタイムラグは不可避である。

以上より冒頭で述べた、"今"を認識することができないという結論に帰結したわけだが、このことは、「我々の"今"認識している全ては過去の事象である」と言い換えることもできる。

認識は過去でも、未来でもなく、今しかできない。今しかできないのにも関わらず、その認識は全てが過去のものである。"今"見える夜空の某星は数億年前の過去である一方で、"今"見えている机のコップは限りなく0に近いが0ではない過去である。このようにタイムラグは大小様々であるが、過去という意味では同じである。さらには"今"も瞬間瞬間の連続であり流動するが故、その"今"は連続的に過去に移りゆく。

我々の認識しうる"今"は過去の事象であり、その"今"の認識ですら過去へと止めどなく、儚くそして刹那に移りゆき、これは不可逆的である。(経験則:覆水盆に反らず、物理法則:エントロピーの増大の法則参照)

"今"は実際に実在するのか。"今"を証明しようとしても"今"はすぐに過去になり、"今"を観測して今認識したものは全て過去である。結局今を証明することはできない。さらには過去は記憶であり、その記憶は書き換え可能であるため、記憶の真偽は証明しようがない。従って、過去の実在も証明できない。言うまでもないが未来の実在も証明できない。従って、我々の存在も証明できない。("今"は過去の一部であり、その過去自体の信憑性はなく、未来の存在も仮説の域を出ない。我々の存在も過去でしか語れない。このパラドクスはどうも、過去、今、未来というように時間軸を今という不確かなものを原点として区分していることが原因のように感じる)

過去、今、未来。そして我々の存在。それらは全て錯覚にすぎないのか。
この世界は存在すら証明できない異常世界である。
posted by 猪瀬歩夢 at 00:54| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月26日

我々の脳は外部に接続している

スマホ。
略して、スホ。

だがしっくりこないので、以下ではスマホと呼ぶことにしよう。

便利な世の中になったものだ。PCの機能を持つ装置が片手で事足りる時代が来るとは。

最近、関心が尽きない。片手に収まるスマホから、膨大な数の情報を引き出すことができる。スマホは端末なのだから、ネットワークに接続したすべての装置をかき集めれば、両手ではとても収まらりきらないほどの装置になるのは想像できる。ただ見かけ上、この小さなスマホには膨大な情報が含まれているといえる。これは視点の問題だ。円錐は横から見れば▲に見えるし、上から見れば🌑に見える。基本的に三次元住人は二次元しか見れないのと同じように、スマホの原理を知らない住人からすれば、スマホは膨大な情報が含まれている小さな装置にしか見えない。このような住人を一般住人と呼ぼう。

一般住人は考察する。小さなスマホには膨大な情報が含まれることから、情報量と装置の大きさには相関がない。即ち、(装置の大きさは関係ないのだから端末としての機能を備えているのであれば、)装置の大きさを限りなく小さくすることが可能である、と。

従って、我々の常識からすると米粒には情報がほとんど詰まってないように感じるが、米粒に端末としての機能が備わっていればその中に膨大な情報が含まれているということになる。たられば議論しかできないことから解るように、米粒に端末機能が備わっているか否か解らない以上、我々は一般住民である。さらに、情報の出力の仕方や解読法が分からないが故に、微小なものほど含まれる情報量が少ないという誤った常識を構築するのである。この類の誤解は、人間の脳の中には映像・文字・数字・本能・理性・感情・思考など膨大な情報が蓄積されているが、他者がその情報を出力する術をしらなければ、「この人間の脳みそは空っぽだ」と安易に判断するのとどこか似ている。

我々は一般住民であり、その上に無知であることを忘れて、「小さなものの中に膨大な量の情報が含まれている」という可能性を無視しているのだ。この可能性を是とすると、蟻を安易に捉えることができなくなる。なぜなら蟻の中に万物の理論が詰まっている可能性が否定できないからだ。髪の毛一本ですら無視できなくなる。その中の情報を引き出す術を持ち合わせてないだけで量子コンピュータ的な装置かもしれないからだ。物質を形成する原子にも電子状態以外に膨大な情報が含まれているかもしれない。・・・・

一般住人には理解できないことだが、神の立場から言わせてもらえば、微小粒子中へ膨大な情報を閉じ込める(ように見せる)ことを実現するには、端末であること、即ちネットワークに繋がっている必要があることを忘れてはならない。

上記を踏まえた上で考えてほしい。人間が脳に蓄積できるだけの情報量を、外部とのネットワークが遮断された状態で脳と同等以下のサイズの装置を実現することは可能だろうか。仮に不可能だとすれば、人間の脳は我々の理解の埒外にある。

この場合、脳はどこか外部に接続されていると言えるのではないか。

この仮定から得られる帰結は何を意味するのだろうか。

posted by 猪瀬歩夢 at 00:30| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月23日

常識の非常識

一は全なのか。

「あの人は変態なんだよ、
                 だって皆言ってたもん」

この類の会話は日常的に繰り広げられる。
当たり前に使われるが故に通常気には留めないが、ふと立ち止まってみると、ある違和感をもつ。
それは、「皆」とはどれだけの人を指すのか、と。

「皆が言ってた」とよく使ってしまうが、皆とは誰かと問われて実際に数えてみると、たった2,3人くらいである。これは面白い。人間のハイスペックな脳でいう統計の母数は、指で数えれる程度しかないのだ。但し、これは無意識に処理されるシステムの埒内に限る。脳は基本的に省エネなので負荷がかかるシステムは自然と避けてしまう。ここでいう負荷のかからない領域が、すなわち無意識に処理されるシステムの埒内ということだ。人間の本能といっても過言ではないこの習性により、結論を出すには不十分と考えれば容易にわかることを平然とやってのける。それは統計学に対する知見が有る無しに関わらず、である。ハロー効果がその代表的な例だろう。

吾々人間は一で全てを決めつけてしまう傾向にある。統計的に意味のある「皆」とするためには少なくとも1000人の意見を聞く必要があるだろう。(母集団は日本人としている。)

普通の人間なら日常レベルの淀みなく流れる思考の中で、何かしらの見解を出すときにわざわざ1000人の意見をサンプルとすることはない。裏を返せばごく少数の皆の意見から見解をだすのは普通、なのである。どうやら、木を見て森を見ないのは人間の性のようだ。

以上を踏まえた上で言うが、一を全とするのは間違っていると迄はないにしても、結果として過ちを生むことは避けられないと断言しよう。従って、偏見を生み本質を見逃してしまう原因がここにある。この過ちを人間の性と言ってしまえばそれで終わりだが、こういう言い訳は他人を許すときに使えばいいのであって、自分には決して使ってはいけない。この理由は言わずもがな、であろう。
一を全とする思考傾向から、極論、吾々の言う「皆」から得られた意見を基に構築された常識は、常識でないとも言える。このように吾々の持つ常識には疑う余地が十分あるのだ。

さらに思考を進めると、人間の性が一を全として非常識を形成するのだから、この場合、個々がある特定の一を例外なく全とすると仮定したら、一個の非常識を常識と錯覚した見解を各個が持つ「皆」という触媒によって信じこむ(洗脳される)ことで、非常識が次々と人-人間で連鎖的に感染拡大し、最終的には皆が同じ非常識を抱えているという訳だから、全員が非常識になる、即ち初期状態では個人レベルで非常識だったことが結果的に世間の常識になることに気づく。この人間的エラーは、もはや自然の摂理の一つなのだろう。

この自然の摂理を認め、敢てこの一を全とした場合、この世の中の常識は今まで常識故に疑いもしてこなかったが、元々は全て非常識であったということになる。そう、これが常識の非常識だ。それを知った吾々は当然次の疑問を抱く。

元々の常識、即ち真の常識とは何であろう、と。

これまでの一は全という極端な話により生じたこの疑問は序論に過ぎない。、
この世の中、全とまでは言わないがこの世界には吾々が観測できない真の常識がいくつも隠れていることは確かであろう。

例えば、古代が現代より劣っているという常識に隠れた真の常識だとか。
posted by 猪瀬歩夢 at 01:41| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月21日

馬鹿の美化

馬鹿とは悪か?
馬と鹿は立派な動物なのに・・・
馬鹿とは何か?無知であることだろう。
そうであっても馬鹿のイメージが悪いことに甚だ疑問を抱く。

馬鹿は特権だと思う。みんなもうちょっと馬鹿であることに誇りを持つべきだ。大半の人が馬鹿であることに恥じ、馬鹿であることをやめている。
人間賢くある必要は無いように思える。そもそも他人に賢く見せる、見られる必要はあるのか。人の賢さなんて、局所的に過ぎず知らないことが大半だ。専門とか、得意とかから距離を置いたら、その場所ではだれもが素人のはずだ。要するに大半の領域で無知なのだから森羅万象を母数として平均的に各個人を観測していくと、人間みんな馬鹿に分類されることに気づく。

馬鹿な人間を愚かだというのであれば、俯瞰的に物事を見れていない。自分が馬鹿に分類されていることを知らずに。これこそ愚かな人間に他ならない。愚かな人間は馬鹿の知が著しく欠乏している。馬鹿を否定できる次元にすら立てていない。1次元世界の住人が、3次元物体を観測するようなものである。1次元住人は3次元物体が横切っても、点の消滅としか認識できない。その認識をもって全を理解したような気になっているようなものだ。愚かな人間であることは、自分を差し置いて他者を愚かだと蔑み自分の正しさを疑わない人間であることの必要条件だ。

吾々は馬鹿であるという認識が常識でなければならない。このことをあなたが受け入れれるのであれば、賢く見せる努力をすることは不合理であることに気付くであろう。賢く見せて、評価されて何を得るのだろうか。名声?自尊心?こんなの得たところで、自分の能力が向上することはない。形而上で且つ実体のないものを得たところで、自己成長には全く持って繋がらないことを考えればこのことは自明。なので寧ろかえって、愚かな人間に映りやすい。なぜなら、賢く見せようとすると、無知であることを知られたくない心理が働く。すると、知らないことを聞けなくなる。以降、知識のインプットが抑制される。それが続くと、思考が表面的になり中身のない結論しか出せなくなる。こんな人間を、多少の知見がある他者が観察すれば、中身がない浅い思考回路であることに気づくことは容易であろう。

一方で、馬鹿であることを恥じない人間は、他人からの評価を気にすることは少ない。なぜなら、馬鹿だという自負があれば、自尊心が傷つく要素を持ち合わせないからだ。何でも聞ける。無敵の状態である。そして、馬鹿であると理解した人間が成長することに貪欲であるのならば、知識は日々増える一方である。以上の馬鹿であることの中に、能ある鷹は爪を隠すことの本質的な意味が秘められているように感じる。能ある鷹は馬鹿であることを理解し、馬鹿であるが故に学ぶことに貪欲であるが、自分を馬鹿と思っているので賢く見せようともしない。これを見た他者の目には、必然、爪を隠しているように映る。よって馬鹿は鷹である。
このことが、馬鹿と天才は紙一重だと言われてる真の理由であると私は考えている。

故に、天才になる近道は馬鹿になることである、ということに馬鹿は気づいたであろう。
ラベル:天才 愚か
posted by 猪瀬歩夢 at 23:02| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月29日

好きな人に告白される方法

この世は不条理だ

もっと女性の方から好きであることを告白するという、一般常識が流行してもいいはずである。
なぜ、そんなことがないのか。

ただ、ぼくがモテないからか。
そんなはずは断じてない。 ・・・・思想の自由は皆平等にあるので誰もぼくを責められやしない。

省エネは今や流行は終わっているが、
ぼくは省エネで行こうと思う。

そこで、省エネプランとして意中の女性から好きですと言ってくれる状況をつくり出す方法はないものかと考える。

それではまず、告白してもらいたい女性が好きですと自分に告白するまでの必要条件を時間軸で整理してみよう。

@ぼくに彼女がいないことをそれとなく知ること
Aぼくを好きになること
Bぼくを好きという思いが強くとなること
C自信を得るためにぼくが好意を寄せていることをそれとなく認識すること
Dぼくが他の人にとられるのではないかという不安を感じること
Eぼくが告白してくるかもという雰囲気がないと悟ること
F告白を先延ばしにすることで恋愛関係に発展しないリスクが強まると感じること
Gぼくのことが一番の悩みであり、大いに苦しむこと
H苦しみから解放するには告白しかないと確信すること

自分なりに上手くまとまったと思う。繰り返しになるが思うのは自由だ。
では次に上記の条件をクリアする方法を考えていこう。

ステップ@は簡単だ。コンビニ弁当を毎日食べていることと、土日はやることないから家に引きこもっていることを誰かを利用して伝わるようにすればいい。(タイミングがあれば自分で言うのも可)
ステップAが一番難しい。友好的な好きと、恋愛的な好きがあるためだ。基本、ぼくの情報量を多くもたせることと、負のストレスを与えなければ好意はもつと考える。互いに共通する思い出を長期的に構築するように、地道に積み重ねよう。
ステップBは好きになってくれさえすれば、ステップAを継続すれば連鎖反応的に気持ちは膨らむだろう。実に余裕である。
ステップCは話しているときにそわそわしたり、楽しそうにしたりすれば十分クリア可能だ。
ステップDは仕方なく合コン行っていることがそれとなくリークする、または別の女性と話すところを見られるチャンスを多く作ることでOKだ。
ステップEは草食系男子であることを周囲に自慢する。そして、動かざること山の如しが座右の銘であることを伝える。
ステップFはぼくがロリコンであることを主張すればよい。超簡単
ステップGは@〜Fの条件を満たせば自動的にクリアする。
ステップHは告白以外の選択肢は与えないように、微動だにしないことが重要だ。

パーフェクトな告白される作戦である。これぞ省エネコクられ術である。

そろそろ彼女ができそうな気配を感じてきたが、気のせいではないだろう。



ラベル:好きな人 告白
posted by 猪瀬歩夢 at 23:10| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月27日

世界の創造主

わたしの世界

状況を把握する、ものごとを考える、判断して行動する、なにかを感じる、直感的な思考、
これらは全て自分の脳によって行われる。
ひとは皆、他人の脳を使って直接的に思考することは、まずない。

自分が想像できるできないに関わらず自ら発するすべての事象は
必ず自分の脳というフィルターを通して処理されたものである。

即ち、誰もが平等にオリジナルの世界を所有していることになる。
他者からの影響の大小に関わらず、必ず確実に例外なく、我々人間は、自分の脳で、
世界をとらえ、理解し、その中で生きている。

上に従うと、世界とは自分由来であることは自明の理であり、
自分の脳にある情報量とその組み合わせによって世界を創造しているといえる。

よって、世界とは各個の想いと考えから構築されており、
「世界とはわたしだ」と言っても十分によい。
世界を認識しているのは他でもない私であり、複数の脳を接続する技術のない現在では
他人の脳は直接介入していないのだから。
他人からの影響度は自分の世界観で決まるので、決して矛盾など生じてはいない。

世界は私が創り上げており、その創り上げた世界はわたしでもある。
生きている中でのすべての事象は自分の脳が意識無意識の中で
認識しうるものに限られ、知っていることだけが世界である。

この世はわたしの世界であるのであれば、この世界の神とはわたしのことである。

ではわたしの世界での背景に当たる、その他の物体とは何であるのか。
物理現象に縛られたその他のオプションの、わたしの世界との位置関係はなんなのか。
神であるわたしの世界での人生が思い通りにいかないのはなぜなのか。

この疑問に答えるのなら、知っていることだけの世界だからだ。
すべて知りえないわたしの世界では、知らない事象からもたらされる不確定要素が、
思い通りにいかない要因であると言える。
故に、全知が得られたのならば疑問が生じることない。

全とは過不足なくという意味である。
このことはわたしの世界が全の中の部分であることを意味する。

だが、部分であることに悲観するのは甚だ思慮が浅い。
疑問が生じる、つじつまの合わない等の、不確定要素78%の世界だからこそ、
好奇心という名の快楽が得られる。

言いたいことは沢山あるが
何はともあれ、世界がわたしのものであるという事実は変わりえない。

以下余白










ラベル:世界 創造主
posted by 猪瀬歩夢 at 23:00| 京都 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月30日

私は不死の可能性を有している

私とは何か

私は脳で思考している。
脳は私か
MECEを活用せずとも抜け漏れがあるのは自明

脳とそれ以外の体を形成する有機物で抜け漏れはないはず

脳と外部情報を受信するその他有機物。
細かく言えば生命維持等の器官とかに細分できるが無視

脳だけでは外部情報がインプットされないので記憶ゼロスタートであれば、
思考不可となる。

これを考えれば外部情報を受信するその他有機物は非常に重要だ。

情報は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚 的な感覚で受信している。
受信した情報を蓄積し、蓄積した情報を組み合わせ、思考を成す。

私は脳とそれに接続したその他有機物で思考をしている。
なら、私は脳とそれに接続したその他有機物で思考している人に属した生き物と結論

では、私が死ぬとは何か。
死ぬとは自分を形成する有機物クラスターがゲシュタルト崩壊したようなものか
そうなったら、んー要は生命機能が停止し朽ちたら、思考できなくなるのか。
このことは脳とは量子コンピュータ的なものと仮定した場合、
生涯蓄積した量子化した情報は消滅するということになるか

量子もつれで情報はテレポートするらしい。
量子もつれにある対を無限遠に引き離したとして、
一方の情報を読み取る、同時にもう一方の情報も決定する。

何が言いたい。
私の脳の記憶、即ち量子化情報(状態)と量子もつれにあるもう一方が
どこにあるかわかっていない今現在、(そもそもそんなのがない可能性もある)
あらゆる可能性が考えられる。

世界は私の情報と思考で形成している。
有機物が消滅しても、情報がどこかへテレポートする可能性がある以上、
私が死ぬと私を形成する有機物の消滅が等価であると結論することは難しい。
死ねば量子テレポートにより私の記憶情報が他の有機媒体に転移するかもしれない。

要は
私が死ぬとは私の有する情報の消滅である。

ただ、この結論は私の死を完璧に断言するのは多世界解釈的に難しく、
所謂、「一般的な死後」の世界の可能性を示唆しているものである。

ラベル:もつれ 量子 情報
posted by 猪瀬歩夢 at 00:25| 京都 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月20日

人生得する人の特性


A氏:

私は今、上司X氏から説明を受けている。

「この上司、説明長くて、鬱陶しい上司だな」と眉をひそめる。


一方、B氏:

私は今、上司X氏から説明を受けている。

「この上司、丁寧に説明してくれていい上司だな」と胸を熱くする。


よくある話ではあるけれども、上記は同じ事象に遭遇した場合であっても、とらえ方は大別して二分される。ここで重要なのは上司Xの説明は相手を理解させるのに必要な情報を適切に提示しているため話が長くなるということである。


A氏とB氏どちらが人生で得するのか疑問に思わないだろうか。私の独断と偏見から結論を導き出そうと思う。

@ A氏はいうなれば人の悪いところを見るタイプ⇒ネガティブ観察型(N型)とする

A B氏は対称に人の良いところを見るタイプ⇒ポジティブ観察型(P型)とする


ではN型とP型について考えていく。

まず、N型は他者の悪いところを糧に自分を高める性質をもつ。要は相手を悪く見ることで自己否定を回避し、優位な心理的立場を維持する。このようなタイプは、自分より優位な人間を恐れ、その人を避ける、拒否する、否定する傾向にある。そのため、自分より才能の高い人間からの吸収は望めない。

また、悪いところを見るのに優れているので、賢い人間であれば、他者を反面教師と捉え、自分の行動に制限を課し、己の欠点を最小限に抑えることが可能だ。


次に、P型は相手の良いところを糧に自分を高める性質をもつ。このタイプは自分より才能の高い人間から吸収しようとするため、自分の才能の領域を拡大することができる。


以上より、N型は自己保守性が強いと言え、一方でP型は自己改変性が強いと言える。


従って、N型とP型のどちらが得するかという議論は、自己保守性か自己改変性のどちらが得かという議論に置き換えることができる。


自己保守性が強いタイプは自分が絶対的であるかのように錯覚し、自分を疑わない。そのため、問題があれば基本的に他人に原因があると考える。対して評価されるようなことがあれば、自分のお陰であると主張するだろう。

一方で、自己改変性の強いタイプは自分より他者が優れていると考え、問題が起こればまず自分に原因があると考える。評価されれば他人がいてこその評価であると謙遜する。


この文章を書いているだけで自己保守性の強いタイプに対して嫌悪を抱くのだが。

まず、自己保守性タイプの成長曲線はせいぜい√Xだと思う。成長の傾きが負である理由は外から影響因子は近似的に0であり、自分の中にあるものだけを繋ぎあわせようとするためである。

そして、このタイプは自己中心的、利己的に見え周囲から距離を置かれ成果への相乗効果は見込めない。すなわち成果は自己の能力と等価である。


対する自己改変はこの逆で成長曲線はX^2であり、成果に対しては自分の能力に周囲からの相乗効果が加味され、指数関数となる。


みなまで言わなくても結論は自己改変性のP型が得するタイプである。


うん、P型に幸あれ

ラベル:人生
posted by 猪瀬歩夢 at 22:31| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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