2014年12月07日

第一印象を良くすることは愚かな選択

よく耳にする、大人の口癖
第一印象は良くした方がいい。と、
第一印象は重要ではあるが、良くする必要はないと私は断言する。

第一印象が非常に良い人をよく目にはする。大人の教育がしっかりと世の中に浸透している証拠だろう。
第一印象は確かに重要である。その人の印象は初対面でほとんど決まるというのだから。

だが、第一印象を良くする必要はあるのかと、よく思う。
なぜなら、第一印象の非常に良い人が1年後に印象の良かったためしがない。
第一印象は後々のその人の印象を決める基準でしかない。

人は良い点があれば悪い点も必ず同時に存在する。
第一印象を決める時、良い点を出すことは賢い選択なのだろか。

まっさらな白紙を見ても人は白以外認識しない。しかし、その白紙に黒色で点を書いたなら、黒点があることを強く認識するようになる。真っ黒な紙に白点を書く場合も同様である。

これで話を進める下準備はできた。ここからはモノクロ世界で話を進めよう。
白色は良い面、黒色は悪い面を現すとしよう。初対面での相手の印象は紙すらない状態、すなわち無色の紙である。そして、第一印象によって相手の持つ紙の色は黒なのか白なのかが決まる。白い紙を持つか黒い紙を持つかはあなたの自由だ。

第一印象が良い人は、不純を含まない真っ新な白い紙を所有している。なぜなら、第一印象がその人の全印象を決める傾向にあるのだから、紙全体の色は一瞬で白に染まってしまう、という訳だ。初めは白紙を見て純白の美しさに目が眩むかもしれない。だが、時が過ぎれば白への意識は弱くなる。それからというものの白紙を所有している人がいい事をし続けたとしても紙の色に変化は見られない。ある日、白い紙を所有する人がぼろを出した。それはその人の悪い点が出たということだ。そう、ついに所有している純白の紙に黒点が付いてしまったのだ。この時、紙一面は黒色に染まらない。なぜなら、第二印象以降の印象は第一ほど印象が強くないからだ。白紙に書かれた黒点はものすごく目立つ。その人が所有する紙を見たすべての人は確実に黒点にしか目がいかないだろう。白への認識は限りなく無の状態だ。仮に、その付着した黒点を良い点を出すことで消そうとしたとしよう。しかし、消すのは容易ではない。第一印象後は何をしても、色を点として描くことしか叶わないのだから。付着した黒点をピンポイントで消すことは至難の業だ。確率的に考えればわかること。黒点を消したければ紙に途方もない量の白点をプロットしなければなるまい。白紙に付いた黒一点は目立ちすぎる。白紙を持つ人の代償がこれだ。代償が大きすぎる。良い面よりも悪い点が目立つとは・・・。

ここまで説明すれば、白い紙と黒い紙のどちらを所有する方が賢い選択かは解るだろう。

黒い紙に決まっている。黒い紙を所有しておけば、自然に白点がプロットされる。白点を全く付着させないなど不可能に近い。その付着した白点は、感覚が平衡と化した我々一般人の目には白紙を持つ人の白よりも際立って目立つ。そう、黒い紙を持つ人は良い点が目立つのだ。その良い点の出現によって紙の黒色への意識は背景と等価になる、すなわち認識されにくいものとなっている。白点ひとつで悪い面への認識を限りなく弱くしたのだ。しかも、時間の経過とともに自然と白点は目立つようになっていく。この上ない報酬である。

大人の言う「第一印象を良くすべき」ということは間違っている。いや、正確には賢い選択ではない。面接のように短い時間で評価してもらわなければならない時ならば仕様がないことだが、そんな状況、一般的でない。

だが、第一印象に重きを置いているのは評価しよう。第一印象が重要であることには変わりないのだから。人は第一印象に左右されやすい生き物。これは確実に人間の弱点である。人間は表面重視傾向が強い。短時間内に人をだますなら第一印象だろう。だが、第一印象が第二印象以降、まっさらな背景になることは留意しておきたい。すなわち、第一印象で相手を騙しつづけるということは、長い時間その相手と共に過ごしてはいけないということだ。逆にこれを逆手に取れば、第一印象をあえて悪くすることで、それ以降良い印象を相手に与えやすいということになる。

まあ、私は人を騙すことは道徳的に良くないと思うが。



タグ: 第一印象
posted by 猪瀬歩夢 at 21:47| 京都 ☁| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月28日

視野が狭いコンプレックス

最近、視野が狭いことに気付いた。
今まで特に意識したことはない。寧ろ、過去は視野が狭いことを美化する傾向にあったはずだ。

視野が狭いことを気になりだしたのは、将棋をしているときである。将棋をしていると、敵の飛車や角、香車に無駄に駒がとられるというミスをする。周りが見えていない証拠だ。

何故、視野が狭いのかと考えた。余裕がないからではないのかと考えた。余裕がないとき、断片化された局部、局部に細心の注意を注ぐ。この状況が視野を狭くしているに違いない。いや、まて、逆か。視野が狭いから余裕がなくなるのか。

普通、余裕がない状況というのは、ものごとを初めて行う不慣れな時が多い。不慣れな時に全行程のすべてを把握することは困難であるため、全体を分割して、まず各部分ごとに理解することが、全体を理解するための合理的な手法であろう。すなわち、不慣れな状態を確実に乗り越えようとするとき、物事の断片化を無意識に行うため、それに付随して情報量が増大する傾向にある。さらに多数の情報を脳で処理することは難しいため、それと相関してストレスを伴う。そして、このストレスが余裕のない状態を生み出しているのだ。

ここで補足しておくが、全体は部分の総和でないことに注意されたし。一と一から生まれる全体は我々の思う以上に複雑である。その全体を断片化し、得られた部分の理解から全体を理解しようとするのだから混乱するのも無理はない。数学の難問を解くときに足し算と引き算しか知らない状況とまるで同じだ。

したがって、不慣れな状況を乗り切るために、断片化するという合理的な手法はかえって脳の処理機能を圧迫し、余裕がない状況を創り上げているのである。

ということは、ここまでの記述では何故視野が狭いのかという問いには答えられていない。では、改めてこの問いの答えについて考えよう。視野が狭くなることで余裕がなくなるという流れは理解できた。視野が狭くなる前に何かあるはずだ。

あゝ、上記した中に、問の答えらしき文がある。それは7行目あたりの「不慣れな時は、全行程のすべてを把握することは困難であるため、全体を分割して、まず各部分ごとに理解することが、全体を理解するための合理的な手法であろう。」のところだ。これで、不慣れなことを行う際の合理的な手法が、視野を狭くしている、というところに繋がった。

よし、合理的な手法が視野を狭く・・・。ん、まてよ。ここまでは、視野が狭い状況は負の状態として扱っている。ということは、合理的な手法が負の状態を作り上げているという、結果的に不合理な状況を生んでいる。これはパラドクスだ。何か間違っているのか。

あ、そうか。合理的な手法は、不慣れな時に合理的な手法であって、慣れたときに合理的な手法であるとは限らない。慣れたときには、当然別の合理的な手法が存在し、不慣れな時と状況が異なっている。不慣れであるのだから、経験を積めば慣れるのは当たり前であり、不慣れな状況が未来永劫続くわけがない。

あゝ、なるほど。私の視野が狭かったことが、パラドクスを生じさせていたのか。ここでまた、視野の狭い自分に改めて気づかされた。この教訓を生かして、視野が狭いことについて視野を広くして考えてみよう。

視野を広く、視野を広く、広く。広く。
ん、まず、ここまでのことをまとめてみよう。不慣れな時に、視野が狭くなる。視野が狭いと余裕がない心理的心境を生み出す。経験を積めば、不慣れな状況は無くなり、代わりに慣れが生じる。慣れた状況はどういう状況なのか。余裕ができた状況だろう。余裕ができているということは物事を断片化して考えているのではないということになる。

お。部分としてではなく、全体を全体として理解できるようになったとき、余裕が生まれて、慣れたという状況をつくりだしているのか。ということは、この時点で、視野の狭いという状況は消滅している。全体を全体として理解したのだから、視野が広い状況と言えるだろう。

不慣れな状態は、経験を積めば必ず慣れた状態へ遷移する。
不慣れな状態が慣れた状態へ遷移すると同時に、視野は狭い状態から広い状態へと移る。
すなわち、経験を積めば、視野の狭いという負の状況は必ず克服できるという結論になる。

よかった、これで安心して睡眠できる。だが、安心しすぎは要注意だ。全体は時間が経過すれば新たな全体の部分に変る。すなわち、安心して経験を積むことを怠れば、気付いたときは既に部分の理解に留まり、視野の狭い状況へと退化しているのだ。今の私のように。








posted by 猪瀬歩夢 at 23:20| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月27日

思考は思考を鈍らせる

人は思考する生き物。勉強すればするほど、賢くなればなるほど、思考の深みが増していく。その鍛錬された思考によって、数多の発明、そして発展が生まれる。人間固有の技術は思考無くして進化することはなかった。


しかし、思考は思考を鈍らせる。その思考は固定概念というものだ。深みある思考は、さも唯一無二の思考であるかのような錯覚を引き起こす。この錯覚は自惚れである。自分が苦労の末得た思考なのだから、そう簡単には崩すことはできない、という訳だ。確かに、苦労の上に立つ思考を崩すとなると、これまでの苦労を無にすることと等価であるように感じる。そう、これは「もったいない」という心境である。


思考の深みが増すごとに、誰もが到底達することのない悟りのような境地に到達することもあるだろう。だがしかし、そこに達する人はほんの一握りである。では悟りの境地に達せない人間の共通点は何か。それは「自惚れ」であろう。深みある思考を得たことに満足し、それ以上の進歩が望めない状態にあるのだ。この状態は堅い人に多いと思う。堅い人間は柔軟性に乏しい。思考は飽和し、思考パターンの多様性が非常に乏しくある。


思考する人は容易にこのような落とし穴にはまり、はまってしまえば抜け出すのは至難を極める。これが悟りの境地に到達する人が少ない所以である。悟りの境地まで到達するか否かは、思考が飽和することなく、ものごとを柔軟に受け入れれる習慣があるかにかかっている。思考が思考を鈍らせないためにも、型にはまらない、多様な思考ができるようになることが望ましい。まあ、容易ではないだろう。人は経験を活かしてことに臨むのだから、前例にこだわるのは無理もない。


しかし、過去の状況と今現在とが全く同じであるということは確実にありえない。そこに、気づかなければ、いつまで経っても穴にはまったままである。そこで、自分に染みついた思考に縛られない方法として、一つアイディアがある。それは思考をいったん物置にでもしまっておいて、自分の直感に頼ってみる、ということである。思考を深めた人間は直感的な行動をすることに恐怖を感じる傾向にある。思考有きの行動では、思考が自分を慰める儀式であるため、儀式なしで行動するときの心もとなくなるこの心境を理解することはそこまで難しくはないはずだ。


だが、思考を深めることと直感的な行動は両立することが可能である。直感的に行動すれば、何かしらの結果が得られ、その結果を深みある思考によって是正すれば、直感的な行動と思考は両立している、ということになる。落とし穴にはまった人間(すなわち直感が鍛錬されていない人)は思考が先にきて、そのあとに行動を起こすため、行動までに時間がかかってしまう。他者からものを言われ、自分の思考が追い付かない場合であっても、思考しなければならないという制約があるがために、直感的に判断できず身動きが取れない時間が生じてしまう。この時、あせった人の取る行動は一貫して決まっている。それは他者の意見を無視するか、否定するかだ。そうしなければその窮地を時間内に抜け出せないのだから。無視と否定は一見すると直感的反応と思われるかもしれないが、単純にその状況から抜け出したいという拒絶反応に過ぎない。


一方、直感を鍛錬した人間は、判断に時間はほとんど要さない。そのため、思考に使う容量を別の領域に使うことができる。それは、状況把握の領域である。


限られた時間内に状況を把握し、思考し、判断するのであれば、思考に時間を取られ、状況把握を蔑ろにする。状況把握を蔑ろにすれば、誤った状況を基に、思考を構築するのだから、誤った判断に至るのは必然的であろう。では、状況把握を的確にすればいいのかというと、そうとは限らない。時間に余裕があるときはそれでもいいが、現場ではノータイムで判断しなければならないことがほとんどだ。すなわち、状況→思考→判断のプロセスは、現場ではとても使いものにならない。したがって、状況→判断→思考という直感と思考を両立させたほうが妥当であると考えられる。


これからは直感の重要性を意識してみるのも悪くない。

タグ:思考 直感
posted by 猪瀬歩夢 at 18:38| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月08日

芯のない人間のゆく末

芯がない。

芯のない鉛筆はただの木片だ。

では、芯のない人間は。


まあ、ただの人間だろう。


ただの人間で満足してはいけない。ただの人間とは人間に属しているというだけで個は尊重されていないのだから。虫や鳥、草木などの動植物の各々の個を尊重することはほとんどない。個を有すると自覚できるのは人と人とが作用し合い、互いに個を認め合っているからである。


このような個の強さは人それぞれで大小が異なる。個が強い人もいれば、個が弱い人もいる。個が限りなく弱ければ、その人は実際に存在してはいるが、他者から見れば赤の他人同様、ただの人間である。このとき個としては尊重されていない。


個の強さは何で決まるのか。それは各個人の芯の強さであろう。芯がなければ個はなく、ただの人間である。芯があって初めて他者から個が尊重されるのだ。ではその芯はどうすれば強くなるのか。


芯は、他者に共感してばかりいては弱くなり、やがて朽ち果ててしまう。すなわち、芯を強くするには他人の意見に共感してばかりいてはいけない。これまでのすべての経験(勉強も含む)を踏まえて得た、自己流の考えをもつことこそ、芯の強さであろう。この考えだけは譲れない、というようなスタンスでなければ、周りと同化しやがて個を無くす。


しかし、「芯が強くても周囲の人と協調することは可能である」ということには留意すべきだ。ただ、協調は表面的な相互作用であるため、芯の強弱に対して瞬間かつ直接的に影響を及ぼすことはない。しかし、持続的な協調においては、芯は打たれ弱い性質を持つ。なので、大したことのない事柄に関しては他者に意見を譲って共感しておけばいいのである(共感したふり)。そして、ここぞという時に、又はこれだけは譲れないという時に、自分の意見を発すればいい。そうすれば集団で孤立することなく芯の強い個を維持できるという訳である。


芯のないただの人間は無難であるが、なぜ自分がこの世で生を受けたのかの意味付けをする上では心もとないであろう。生きてる理由なんて、人間という集合体や地球規模、はたまた宇宙規模で考えたのなら特に意味などないであろう。しかし、我々個人には思考という能力が全ての人間に平等に与えられているのだから、個の思考により個の人生の意味付けをすることは可能である。個人の人生の意味付けは、芯がなければ絶対に達成できないであろう。なぜなら、芯は個を創り、個の思考により、オリジナルの世界観を創り、やがてその世界観が人生の意味付けを達成させるからである。


形ある物体はマクロの視点で見れば1つの物であるが、ミクロの視点で見れば多数の原子からなる集合体である。人間という枠組みも同様、マクロの視点ではただの人間であるが、ミクロな視点で個の集合体である。我々各個の視点は主にミクロ的視点であり、面識のない人の集合体を見たとき時、マクロな視点に切り替わる。しかし、一方で自分自身の事は、特殊な修行をしない限りは必ずミクロな視点で見ている。すなわち、自分自身の事は個として確かに認識しているのだ。


自分の個は確実に己自身で認識してはいるが、他者が自分を個として認識しなければ、自分の個としての認識が薄れ、やがて己自身の個すら無関心になる。己自身の個に興味がなくなれば、マクロの視点に切り替わり、己をただの人間としか認識しなくなる。これが上述してきた芯のない状態である。芯のない状態とは自分の人生に意味を見い出せない状態であり、これほど、生を受けた人間として不幸なことはあるまい。


そう、自分の人生の意味を見出すことこそ幸せだったと確信できる答えだからである。
posted by 猪瀬歩夢 at 20:15| 京都 | Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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