2015年07月22日

生の解

生とは思考か

生きてやがて死に逝く我が人生。

生の意味を考える。

生の意味が分かると同時に、死後の意味も分かるような気がするからだ。

生きる意味は生きているから考えることができる。

死ねば生の意味なんて無意味になる。

なるほど、生きている内に考えねばならない、生の意味。

では、生とはどういう意味か。

生物学的知見はどうでもよくって、哲学的に考えると、

生とは、生きてると実感し、それを認識することが可能である今という不連続かつ刹那な瞬間瞬間を慣性の法則により幅を持った時間まで繋ぎ合せた時空内で思考することだと一般的に思わないか。

思考なければ、生とは何かという謎すら生まれてこない。思考無き世界では、生の意味は消滅する。

思考していても、生きていると実感できなければ、生は感じない。すなわち、生を有していないことになる。

生物学的に生きている人間であればどんな状況であれ、意識すれば生を感じることはできる。

このことから、人間において、思考可能ならば、生を有していると言える。

よって、生は思考と考える。


以上、Q.E.D.

ラベル: 生きる
posted by 猪瀬歩夢 at 00:07| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月20日

独り言

今日はいい天気だ。

でも身体が重い。

長い休みの間、インドア派の力を十分に発揮する。

一人遊びは相当な体力が必要だ。

なにをしても心が満たされない日々。

孤独を感じる。

違う世界に干渉したいと思う。

心が満たされると思うからだ。

何がしたいのだろうか。

せっかく生きているのに、人生を楽しんでいないのだなあと感じながら過ぎる、

流動的な時間。

何かしたいが、したいことが見つからない。

何かにはまりたいが、はまりたいことがなんなのか解らない。

ルーチン化した我が世界、変化のない世界観。

飽和。思考の飽和。

飽和は平衡。平衡を崩さなければならない。

加熱だ。加熱の方法は多数あるが、いずれもきっかけが必要

ビックバンのような神の一撃があれば

人生の物足りなさに嫌気がさしている。

欲深いのか。そうかもしれない。

もっと人生を楽しみたい。なにかが足りない。

思考は完全に止まってしまった。





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posted by 猪瀬歩夢 at 16:22| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月07日

第一印象を良くすることは愚かな選択

よく耳にする、大人の口癖
第一印象は良くした方がいい。と、
第一印象は重要ではあるが、良くする必要はないと私は断言する。

第一印象が非常に良い人をよく目にはする。大人の教育がしっかりと世の中に浸透している証拠だろう。
第一印象は確かに重要である。その人の印象は初対面でほとんど決まるというのだから。

だが、第一印象を良くする必要はあるのかと、よく思う。
なぜなら、第一印象の非常に良い人が1年後に印象の良かったためしがない。
第一印象は後々のその人の印象を決める基準でしかない。

人は良い点があれば悪い点も必ず同時に存在する。
第一印象を決める時、良い点を出すことは賢い選択なのだろか。

まっさらな白紙を見ても人は白以外認識しない。しかし、その白紙に黒色で点を書いたなら、黒点があることを強く認識するようになる。真っ黒な紙に白点を書く場合も同様である。

これで話を進める下準備はできた。ここからはモノクロ世界で話を進めよう。
白色は良い面、黒色は悪い面を現すとしよう。初対面での相手の印象は紙すらない状態、すなわち無色の紙である。そして、第一印象によって相手の持つ紙の色は黒なのか白なのかが決まる。白い紙を持つか黒い紙を持つかはあなたの自由だ。

第一印象が良い人は、不純を含まない真っ新な白い紙を所有している。なぜなら、第一印象がその人の全印象を決める傾向にあるのだから、紙全体の色は一瞬で白に染まってしまう、という訳だ。初めは白紙を見て純白の美しさに目が眩むかもしれない。だが、時が過ぎれば白への意識は弱くなる。それからというものの白紙を所有している人がいい事をし続けたとしても紙の色に変化は見られない。ある日、白い紙を所有する人がぼろを出した。それはその人の悪い点が出たということだ。そう、ついに所有している純白の紙に黒点が付いてしまったのだ。この時、紙一面は黒色に染まらない。なぜなら、第二印象以降の印象は第一ほど印象が強くないからだ。白紙に書かれた黒点はものすごく目立つ。その人が所有する紙を見たすべての人は確実に黒点にしか目がいかないだろう。白への認識は限りなく無の状態だ。仮に、その付着した黒点を良い点を出すことで消そうとしたとしよう。しかし、消すのは容易ではない。第一印象後は何をしても、色を点として描くことしか叶わないのだから。付着した黒点をピンポイントで消すことは至難の業だ。確率的に考えればわかること。黒点を消したければ紙に途方もない量の白点をプロットしなければなるまい。白紙に付いた黒一点は目立ちすぎる。白紙を持つ人の代償がこれだ。代償が大きすぎる。良い面よりも悪い点が目立つとは・・・。

ここまで説明すれば、白い紙と黒い紙のどちらを所有する方が賢い選択かは解るだろう。

黒い紙に決まっている。黒い紙を所有しておけば、自然に白点がプロットされる。白点を全く付着させないなど不可能に近い。その付着した白点は、感覚が平衡と化した我々一般人の目には白紙を持つ人の白よりも際立って目立つ。そう、黒い紙を持つ人は良い点が目立つのだ。その良い点の出現によって紙の黒色への意識は背景と等価になる、すなわち認識されにくいものとなっている。白点ひとつで悪い面への認識を限りなく弱くしたのだ。しかも、時間の経過とともに自然と白点は目立つようになっていく。この上ない報酬である。

大人の言う「第一印象を良くすべき」ということは間違っている。いや、正確には賢い選択ではない。面接のように短い時間で評価してもらわなければならない時ならば仕様がないことだが、そんな状況、一般的でない。

だが、第一印象に重きを置いているのは評価しよう。第一印象が重要であることには変わりないのだから。人は第一印象に左右されやすい生き物。これは確実に人間の弱点である。人間は表面重視傾向が強い。短時間内に人をだますなら第一印象だろう。だが、第一印象が第二印象以降、まっさらな背景になることは留意しておきたい。すなわち、第一印象で相手を騙しつづけるということは、長い時間その相手と共に過ごしてはいけないということだ。逆にこれを逆手に取れば、第一印象をあえて悪くすることで、それ以降良い印象を相手に与えやすいということになる。

まあ、私は人を騙すことは道徳的に良くないと思うが。



ラベル: 第一印象
posted by 猪瀬歩夢 at 21:47| 京都 ☁| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月28日

視野が狭いコンプレックス

最近、視野が狭いことに気付いた。
今まで特に意識したことはない。寧ろ、過去は視野が狭いことを美化する傾向にあったはずだ。

視野が狭いことを気になりだしたのは、将棋をしているときである。将棋をしていると、敵の飛車や角、香車に無駄に駒がとられるというミスをする。周りが見えていない証拠だ。

何故、視野が狭いのかと考えた。余裕がないからではないのかと考えた。余裕がないとき、断片化された局部、局部に細心の注意を注ぐ。この状況が視野を狭くしているに違いない。いや、まて、逆か。視野が狭いから余裕がなくなるのか。

普通、余裕がない状況というのは、ものごとを初めて行う不慣れな時が多い。不慣れな時に全行程のすべてを把握することは困難であるため、全体を分割して、まず各部分ごとに理解することが、全体を理解するための合理的な手法であろう。すなわち、不慣れな状態を確実に乗り越えようとするとき、物事の断片化を無意識に行うため、それに付随して情報量が増大する傾向にある。さらに多数の情報を脳で処理することは難しいため、それと相関してストレスを伴う。そして、このストレスが余裕のない状態を生み出しているのだ。

ここで補足しておくが、全体は部分の総和でないことに注意されたし。一と一から生まれる全体は我々の思う以上に複雑である。その全体を断片化し、得られた部分の理解から全体を理解しようとするのだから混乱するのも無理はない。数学の難問を解くときに足し算と引き算しか知らない状況とまるで同じだ。

したがって、不慣れな状況を乗り切るために、断片化するという合理的な手法はかえって脳の処理機能を圧迫し、余裕がない状況を創り上げているのである。

ということは、ここまでの記述では何故視野が狭いのかという問いには答えられていない。では、改めてこの問いの答えについて考えよう。視野が狭くなることで余裕がなくなるという流れは理解できた。視野が狭くなる前に何かあるはずだ。

あゝ、上記した中に、問の答えらしき文がある。それは7行目あたりの「不慣れな時は、全行程のすべてを把握することは困難であるため、全体を分割して、まず各部分ごとに理解することが、全体を理解するための合理的な手法であろう。」のところだ。これで、不慣れなことを行う際の合理的な手法が、視野を狭くしている、というところに繋がった。

よし、合理的な手法が視野を狭く・・・。ん、まてよ。ここまでは、視野が狭い状況は負の状態として扱っている。ということは、合理的な手法が負の状態を作り上げているという、結果的に不合理な状況を生んでいる。これはパラドクスだ。何か間違っているのか。

あ、そうか。合理的な手法は、不慣れな時に合理的な手法であって、慣れたときに合理的な手法であるとは限らない。慣れたときには、当然別の合理的な手法が存在し、不慣れな時と状況が異なっている。不慣れであるのだから、経験を積めば慣れるのは当たり前であり、不慣れな状況が未来永劫続くわけがない。

あゝ、なるほど。私の視野が狭かったことが、パラドクスを生じさせていたのか。ここでまた、視野の狭い自分に改めて気づかされた。この教訓を生かして、視野が狭いことについて視野を広くして考えてみよう。

視野を広く、視野を広く、広く。広く。
ん、まず、ここまでのことをまとめてみよう。不慣れな時に、視野が狭くなる。視野が狭いと余裕がない心理的心境を生み出す。経験を積めば、不慣れな状況は無くなり、代わりに慣れが生じる。慣れた状況はどういう状況なのか。余裕ができた状況だろう。余裕ができているということは物事を断片化して考えているのではないということになる。

お。部分としてではなく、全体を全体として理解できるようになったとき、余裕が生まれて、慣れたという状況をつくりだしているのか。ということは、この時点で、視野の狭いという状況は消滅している。全体を全体として理解したのだから、視野が広い状況と言えるだろう。

不慣れな状態は、経験を積めば必ず慣れた状態へ遷移する。
不慣れな状態が慣れた状態へ遷移すると同時に、視野は狭い状態から広い状態へと移る。
すなわち、経験を積めば、視野の狭いという負の状況は必ず克服できるという結論になる。

よかった、これで安心して睡眠できる。だが、安心しすぎは要注意だ。全体は時間が経過すれば新たな全体の部分に変る。すなわち、安心して経験を積むことを怠れば、気付いたときは既に部分の理解に留まり、視野の狭い状況へと退化しているのだ。今の私のように。








posted by 猪瀬歩夢 at 23:20| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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