2014年11月07日

愚かな女

私は思う


あゝ、なんと愚かな女だと…。

え?愚かな女とはどんな女かって?

解りました。愚かな女について教えましょう。


私の言う愚かとは勉強ができないとか、知識がないとか、そういった学生時代でいう馬鹿を示している訳ではない。私の言う愚かな女とは、自分の身を守る術を知らない無知な女すべてを指す。


今現在生きている以上は、自分の身は自己責任下で守るのは当たり前であり、自然なことであるはずだ。しかし、今現在、この世に生息する人間の女性はどれだけ自分の身を守る術を知っているのだろうか。

知らないでは、許されない。起こって後悔するのは目に見えているのだから、起こる前に身を守る術を身につけるべきであろう。


愚かな女の中には、男が私を守ってくれるから大丈夫と愚を極めた思考をするアホがいる。男がその女性から年中無休、目を外さずに見守ることはできるのかと、声を大にして叫びたくなる。男にも限界があるのだよ。だって、人間だもん。


無知の知とはよくいったものだ。自分が無知であることをまずは知らなければなるまい。このネット社会、プライバシーの意識は十分に薄れている。Facebook、ツイッター等の需要が高まるにつれ、寧ろ自ら進んで個人情報を全世界に向けて開示する傾向にある。しかし、自分のプライバシーを守ることは、自分を守ることと等価であるという意識が非常に薄い。自分の顔、名前、場所が特定されるだけで、様々な事件に巻き込まれる可能性が飛躍的に高くなることを一部の人間は知らない。このような人間は愚かだ。知ってなお、何かしらの対策をしているのなら別であるが、何の対策もせずに自分の顔、名前、場所をネットを通じて堂々と公開している人の心理的状況は異常と言わざるを得ない。


こういう、愚かな女は鈍感であるのは言うまでもなく、隙が星の数ほど多いのだから、犯罪心理の持ち主が狙うとしたら、こういう女を狙うのが妥当であろう。すべての女性に今一度自分に問うて頂きたいのは、自分の身は自分で守る意識があるかどうかだ。


男として、好きな女性を守りたいのは本能だ。だがしかし、その女性をすべてから守りきれると言えるほど、自惚れてはいない。すべてから守れないのが現実だ。だから、せめて、男の目の届かないところでは、しっかりと女性自身で自分の身を案じてほしいと思うのは我が儘なのだろうか。好きな女性を傷つけられた男は、やるせない気持ちでいっぱいだろう。男は女性を目の届くところに常にいるよう強制はできないのだから。


せめて、付き合う女性は、自分の身は自分で守れる人間であってほしいと願う自分がここにいた。




タグ: 愚かな女
posted by 猪瀬歩夢 at 21:30| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月06日

こころの矛盾

人肌が寂しくなる今日この頃。

誰かいい人はいないかと、目に映る女性に期待を抱く。
しかし、女性に声をかける勇気はない。
声をかけるほどの人がいないということなのかと、
またいつもの上から目線でいる自分に呆れる自分。
そんなことだから機会を逃すのだと自責の念にかられる今日この頃。

私にはいつも抱いている願望がある。
女性から声をかけられることだ。
さらにはその女性がど真ん中のタイプであることを。

だがしかしだ。
見ず知らずの男性に声をかける女性はと考えると矛盾が生ずる。
自分の理想の女性は純粋清楚だ。
そこらの男性にホイホイ声をかける女性など理想に反する。

ならどうしたいのかと考える。
私は理系男子。
やはり、付き合うまでのプロセスに美意識がある。
苦労せずに手に入れる女性など…
でも、苦労せずにかわいい女性と付き合いたい。

こころはいつも矛盾だらけ。
理論なんて適用できない。
人間は不合理な生き物なのだから。
タグ:非合理 矛盾
posted by 猪瀬歩夢 at 16:08| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月04日

草食系男子と肉食系男子の相違点

私は草食系男子である。草食系男子と肉食系男子の性質の違いに、同じ男なのにと驚かずにはいられない。私は草食系男子と肉食系男子の性質の違いは、理系と文系の人の性質の違いに類似しているのではないかと考えた。

それではまず、草食系男子と肉食系男子の違いについて考えてみる。草食系は好きな女性がいてもすぐには行動することはない。なので、草食系は絶好の機会を逃すことが多く、彼女ができにくい傾向にある。対する肉食系は思い立ったら即行動、この姿勢から察するに後先はさほど考えていない直感タイプのように思う。このような肉食系男子の行動力にはいつも頭が上がらない。(ただし、ここでは女性に興味を示さない集団を男には含めない。すなわち、女性に興味を持たない人は草食系男子には分類されないということである。)

ここで、草食系男子が好きな女性がいるのにも関わらず、なかなか行動に移せない理由について考えてみる。草食系はチキンであるため行動に移せないのだと言われれば、あながち間違ではないと思うが、その理由で片付けられるのは少々粗末に思える。なぜならば、チキンとは視点を変えれば慎重であるということになるからだ。チキンは言い方を変えれば怖がり屋であるが、恐いと思うことは生きる上で重要なことである。恐怖心がなければ、人間早死にすることは言うまでもないだろう。恐怖心があるからこそ危機を回避することができるのだから、恐怖心は生物にとって重要な本能である。この恐怖心を抱くか抱かないかが行動力に関わってくるのだ。すなわち、好きな女性に対してアプローチしカップルとして成立するまでにかかる時間はこの恐怖心の度合いに依存するものと推測できる。(ここで恐怖と不安は同じものとする)なお時間がかかるほど草食系男子としての傾向は強いと思われる。

では、好きな女性に対してアプローチすることと、告白することのどこに恐怖心を抱くのかについて掘り進めてみる。一般的な思考では好きな女性とは結ばれたいと想うため、それとは逆の事柄に付随したものが恐怖心を誘発する原因であるといえる。好きな相手にアプローチすることで避けられてしまうのではないか、嫌われてしまうのではないか、または親しい関係が告白することによって崩壊してしまうのではないか、と思考を巡らせたりもする。このような「恐怖心をあおる思考」は草食系の一部の性質であるともいえる。

他方、行動力がある肉食系男子は、思い立ったら即行動タイプであるため、直感的に行動する傾向にあることは上でも述べた。よって、これらのことから草食系は行動よりも思考が先に起こり、肉食系は思考よりも先に行動が起こるという様に分類できると考えられる。この分類から、草食系と肉食系の相違点は理系と文系の相違点と類似しているように思える。

草食系は理系的性質が強く、逆に肉食系は文系的性質が強いのではないかと考えた。文系的性質はどちらかというと直感的であり、いろいろな辻褄を合わせてを理論を組み立てるということはあまりしないであろう。それに対して理系は念入りに理論を組み立てる傾向があるため、答えを出すには時間がかかる。このような傾向から理系には考えるという癖があるが、文系には考える癖が理系と比べるといくらか弱いと考えられる。

理系的性質から見えてくる人物像は、思考をする癖があるのだから行動よりも先に思考をする傾向にあると推測できる。行動に起こすには何かしらの答えを出さなければならない。その答えを基に行動するのだから。しかし答えを出すためには、そこに至るまでの情報を収集しなければならないため、行動までには相応の時間がかかってしまうということになる。

このような理系文系の性質を恋愛と関連させたならば、理系男子は好きな女性に対しては、まずその女性が自分のことを恋愛対象として見ているかどうかについて答えを出さなければならない性であろう。相手の自分に対する想いを聞く(すなわちほぼ告白する)ことは一番答えを知る上で、手っ取り早い方法であるが、その「行動」をするためにはまずリスクについて考えるのが理系男子だ。情報がほとんどない中で、好きな女性の自分に対する気持ちを聞き出すということは50%の確率で自分が傷つくのであるから、リスクの面で得策とは言い切れない。もう少し安全であるかどうかの確率を上げるためには情報が必要となってくる。情報とは好きな女性の言動を日々観察することで得られるのだから、情報収集に時間がかかるのは明白だ。すなわち理系男子は恋愛において告白するまでに時間を要する傾向にあると思われる。さらに、理系男子は答えを出すまでのプロセスを楽しむ傾向にあるため、時間をかけることは苦にはならないし、寧ろ告白するまでに時間を掛けることを望んでいるようにさえ感じる。

また、この女性で後悔しないのかについても答えを欲する人もいるであろう。このことから、理系男子は傍から見れば恋愛に積極的でないように見えるため、告白までに時間を費やす草食系男子と相違ない。すなわち、理系男子は草食系男子のことである。

草食系男子は女性に告白するまでに長い時間を費やす男であると定義するならば、草食系を作り上げているのは理系的性質そのものである。したがって、他方の肉食系男子は文系であると言える。




posted by 猪瀬歩夢 at 18:38| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月04日

他者から評価を求めてはいけない

他者からの評価を望むことはごく自然なことだ。だが、この自然に生ずる心理的願望を現実に求めることは、自分にとって合理的な思考の選択と言えるだろうか。

あなたは、他者から評価されたいと強く願っている。その願望を満たすためにあなたは、その願望に付随するよう、行動することになるだろう(まあ、このとき一種の不自由が生じている訳だが)。例えば、一生懸命仕事を頑張って評価を得ようとするかもしれないし、例えば、人助けをして何らかの形で評価されたいと願っているのかもしれない。このように他者評価要求を抱くことは、何らかの行動を起こさせる活力となるため、あながち悪いこととは言えないし、間違っているとも思えない。

では、あなたはある組織の中で評価要求を根源に誘発した行動を辛抱強く続けていたとしよう。しかし、あなたの持続的頑張りと裏腹に周りからは全く評価されない。あなたの心はいささか不安定な状態であろう。このときのあなたは自身の行動に如何なる評価を下すのだろうか。十中八九、「不可」であろう。

このことは何を意味するのか。他者からの評価要求を目的とした行動(他者評価要求行動)の意味付けは周囲環境に絶対的な決定権があり、その行動が如何に自分のためになろうとも、周りが評価しなければ問答無用で無価値な行動となってしまう。したがって、他者評価要求行動をする者は、周囲から評価されない行動をとることを強く嫌う。すなわち、あなたの行動は周りの評価によって決められており、あなたの行動に自由という二文字は含まれていない。自由の無い行動は、自然に抗うことと等価であるため、膨大な精神的負荷を伴う。よって、他者からの評価要求行動は云わば非合理的衝動と言える。

上記で述べたことから、自然な評価要求はやがて不自然な行動へと至る、というパラドクスが生じていることを示唆しているように思える。しかし、このパラドクスを解く術がある。それは“他者からの”評価を目的として行動しようと思わないことである。そもそも、他者評価要求行動には大きな欠点がある。それは他者からの評価には不確定要素が非常に多い、ということだ。他者から評価されているかどうか知るためにはその評価が何らかの形で、当事者自身に伝わらなければならないという大前提がある。評価が本人に伝わらなければ、たとえ評価されていたとしても、評価されていないということになる。また、他者のする評価の真偽は事実上、評価した本人にしか知りえないため、他者からの評価は厳密には知り得ることは不可能、すなわち不確定なのだ。このことから、他者の評価を目的とするにはリスクが高すぎる、ということに気づく。

ここで、他者からの評価を要求してはいけないのだとすれば、自分の価値を如何に見いだせばいいのかが解らなくなってしまう。しかし、今この思考を受け入れた時点で、あなたは大きな過ちを犯していることになる。それは自分の価値を決めることを他者の課題にしている、という点である。自分の課題を他者に押し付けて、責任逃れしているのだ。

これに従い正しくは、自分の価値を見出すのは他でもない、己自身でなければならない、ということである。我々は他者に評価を要求するのではなく、自分自身に己の評価を要求しなければならない。さらには、他者がどのような評価をしているかは不確定なのだから、他者全員がある一定の評価をしてくれていると考えればいいのである。結局、他者からの評価が「不可」なのか、もしくは「良」なのかを知る術がない以上、自分にとって都合のいい「良」を思考の選択として選ぶことが合理的選択と言えるのではないだろうか。ここにきて「世界を変えられるのは己自身である」という格言が非常に意義深いものであると改めて思う。各個人が認識する世界は己の思考によって映し出されたものであるが故。

まあ、言うまでもないが、ここまでの話は道徳の閾値を越えてはならないということを大前提にしている。明らかに他者に迷惑がかかる行動を、自分に都合のいいように思考の歪曲によって正当化してもいいと言っている訳ではない。他者共存の必要性を顧みず自分の欲望のあるがままに行動するニンゲンは愚の極みである。我々人間が組織に生かされているという事実から決して目を背けてはいけない。我々は仲間なしでは生きていけないのだから。


posted by 猪瀬歩夢 at 22:44| 京都 ☔| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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